みちのく瓦版

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細川晴元について語ろう その2


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その1

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139: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/19(土) 23:56:12 ID:j2hOFnxC

基本的に近江坂本は晴元の勢力下にあったの?




141: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/21(月) 14:48:43 ID:ZsIQ2lOL

>>139
普通に六角じゃないかな
と思うけど、義晴は晴元・六角定頼と争って近江坂本に逃げてることがあるから
比叡山かな?




142: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/22(火) 21:16:10 ID:ayJ1oGTs

近江ならやはり六角定頼の支配下だろう。晴元は坂本に将軍が逃げても、
岳父のもとにいるのなら、別に気にすることもないと考えていたのかも。

定頼が晴元の権力を脅かすことはないと思っていたんじゃないの?




143: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/24(木) 16:10:57 ID:F2YBw/H/

近江坂本ってちょっと特殊ですね

上坂本が比叡山の門前町、下坂本が荷揚げ港として発展して、
里坊(高齢の僧侶が隠居所として移り住んだ里の寺)のまち、として栄えたんですね




144: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/28(月) 09:44:59 ID:M9kl0Cue

義晴が逃げたのは近江朽木だったな。まあ六角の支配下だけど。




145: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/28(月) 14:04:38 ID:m1Tzt+JD

>>144
細かくいうと違うよ

大永七年(1527)に桂川の合戦の敗戦で落ちたのは、近江坂本、一時和睦で京に復帰するが、
翌年五月には再び坂本へ→九月に朽木へ移る、長年朽木在留、天文三年(1534)京に復帰

天文十年(1541)十月に晴元と一時対立した時に落ちたのも、近江坂本、翌年三月和解復帰

天文十五年(1546)十月、晴元と対立、北白川→坂本→北白川、翌年七月京に復帰
(天文十五年十二月、義輝が将軍に)

天文十八年(1549)六月、三好政長が江口で敗死したのをうけ、晴元、義輝とともに近江坂本へ、翌年同地で没




146: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/28(月) 19:52:17 ID:YrSh8WiG

なるほど。坂本と朽木か。それにしてもよく逃げてるなあ。




147: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/29(火) 14:18:25 ID:eoGtQWJg

晴元もそうだけど、決して諦めないことは、尊敬してしまう
責任感なのか、自尊心なのか、当時はみんなそうなのか




148: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/29(火) 21:43:56 ID:XDC+BDqO

まー、晴元は人によって評価も様々だけどね。俺はよくやったと思う。
結局この人、生涯のほとんどを戦い続けて終わっているからね。

京兆家の人にしては長生きしたのに。




149: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/30(水) 16:19:12 ID:tFnnQq9w

京兆家では最後の、実力を持った人
だから晴元の最終的な敗北で、京兆家は事実上没落した
氏綱は長慶の完全な傀儡だし、昭元はなんの力もない信長の蹴鞠相手だしね




150: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/30(水) 20:31:43 ID:U7bxqhzq

確かに、晴元は敗北後も最後まで戦い続けることが出来たけど、
昭元は三好に養われたからなあ。最初っから戦う気もなさそう。




151: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/30(水) 20:48:44 ID:FVu+IWqw

戦いつづけたってことは
独自の所領または支持勢力があったってことだよね?




152: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 16:20:46 ID:jEQJyaxI

政長も茨木長隆も江口でいなくなったから、
所領というより、近江六角、丹波波多野晴通ぐらいじゃない、味方は
香西元成はいるけど

丹波が松永久秀の手に落ちるのが、弘治三年(1557)




153: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/03(日) 20:07:29 ID:1U4k+gRA

あとは丹波は波多野が城を捨てて逃げた後も、三好政勝が宇津を根城に
ゲリラ活動を続けていたらしいけど・・・。丹波も山が多いから全域が
松永の手に落ちたわけではなかったろう。

味方はもう少しいたような気もするけど、具体的には思い浮かばないな・・・。




154: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/07(木) 01:34:29 ID:HeDLQqZy

あと一歩だったけど奥丹波(氷上郡)には赤井直正が頑張ってたからね。
宗勝(長頼)・貞勝父子が和久の戦いで戦死してからは全く巻き返しの
チャンスはなかった。




155: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/07(木) 20:44:30 ID:K3otGf1Q

やっぱり山が多いから、全域支配は難しいのね。




157: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/09(土) 20:18:36 ID:n9WzxiZx

最後まで晴元党として活動していたのは、三好政勝ぐらいかなあ。
晴元死後も長慶には降らず、長慶死後三好三人衆に降った。

信長上京後は、最初の本願寺戦の時に信長に降って本能寺後は秀吉に仕え、
時流を見極めてほどなく家康に仕える、と。

嫡流の三好一族は畿内の戦いに敗退後、阿波に帰ったが長曾我部との戦いが
待っていた。長曾我部には負け、蜂須賀家や仙石家にいびられて断絶。

三好政勝はそういう意味では帰る場所をもたなかったから自由に動けたし、
考え方も領地に縛られた感覚というのはなかったのかも。




158: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/13(水) 13:38:38 ID:ETikH13+

そういや、三人衆の一人「三好政康」も若い時に細川に仕えてたね。




159: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/14(木) 17:42:25 ID:8pBxaMMO

どうなんだろうね

政長の子なら当然そうだろし
頼純の子(てか、頼純って誰?)なら違うかもしれないし




160: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/14(木) 20:49:48 ID:y950Uiis

でも政長の子なら政勝の兄?になるになるのか。




161: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/14(木) 21:08:38 ID:SI+qXOGz

>>157に詳しく書いて頂いてるけど、
長らく政勝は晴元党だよね
もし兄弟なら、対応が分かれたことになるね




162: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/15(金) 13:18:50 ID:MFpiQiMg

真田十勇士でも、三好青海入道(政康)と三好伊三入道(政勝)は兄弟キャラだしな。
この設定考えた人は、史実でも兄弟だからお話でもそのまま兄弟として扱ったんだろうか。

でも1544年に政長が長慶との対立を避けるために、晴元に薦められて政勝に家督
を譲ったことがあったけど、当時政勝はまだ10歳ぐらい。兄である政康がいるのに
なぜ弟に譲ったのかがわからんな。




164: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/15(金) 19:50:04 ID:FNFoV5Dr

江口の戦いの時に、榎並城で籠城したのも政勝だった。

政康が庶兄だという考え方もわかるけど、やはり兄弟ではないほうがいろいろ納得できる。




165: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/16(土) 00:07:02 ID:Y0xCqO9u

寛政重修譜には政勝の兄として下野守某が記載されているね




166: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/17(日) 19:12:08 ID:CvN91WA7

政康はたしか上野守だったと思うが・・。




167: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/18(月) 19:26:08 ID:nOMRbbFr

ごめん、下野守だったわ。そうすると政康は政勝の兄ということになるわな。




168: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/23(土) 19:41:52 ID:VTy670QF

結局よくわからないということか。

江口の戦いといえば、摂津の国人衆のほんとどが三好方についていたんだっけ。
池田、茨木、三宅・・・。その中で伊丹親興ただ一人晴元方で、城を三好方に
囲まれながらも籠城を続けて、結局長慶は和議を結んで兵をひいたとか。
半年間ぐらい耐え抜いたのは城が堅固だったからだろうが、なぜ晴元方に
ついたのだろう?少し前に伊丹親興は氏綱方に寝返っているし、
(結局、氏綱が負けてまた晴元方に戻った。)忠誠心が厚かったってこと
ではなさそうだけど。




177: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/18(水) 09:36:51 ID:rycdj229

>>168
伊丹親興は細川家の家来、という意識が強かったのかな。だから氏綱に寝返ること
があっても三好にはなびかなかった。確かに氏綱を擁していてはいたがあの戦いは
三好長慶VS細川晴元だったわけだし。阿波細川家の家来筋である三好に屈する
のは気に入らなかったのかも。




169: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/28(木) 17:05:05 ID:+QVYtvgO

池田長正とか茨木佐渡守とか三宅国村とか芥川孫十郎とか安威弥四郎とか
長慶の味方になった人、結構多いね

この中で池田長正は、父信正が晴元に自害させられてるんですね




170: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/03(火) 13:38:19 ID:Ca8SUTnh

そうだが、裏切ってばかりだったから堪忍袋の尾が切れたというような
感じだろう。この時期、摂津の国人衆はそろって長慶の味方だった。
伊丹氏を除いて。




171: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/06(金) 14:53:08 ID:rsNQncNQ

誰か孫の細川元勝について語らぬか?




172: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/07(土) 10:31:12 ID:fQsQxD9A

細川元勝?頼範のことか。昭元と信長の妹お犬との間の子。
大阪の陣では豊臣方について蟄居謹慎させられた。のち子孫は秋田家に仕えた
というが・・・。




173: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/11(水) 15:17:31 ID:nBHhPxs3

蟄居したのが竜安寺→大和高島
秋田家に仕えたのが子の義元
ぐらいしかわからない




174: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/11(水) 20:30:12 ID:dDSv2qsQ

いわば京兆家の嫡流なのに、哀れな末路だな。徳川家に逆らわなければ
高家として遇してもらえたかも知れないのに。




176: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/16(月) 20:27:40 ID:74AaBDlH

当時の武家の日記「蜷川親俊日記」には細川晴元の被官達の名が数多く上げられているが、
回数がもっとも多いのが茨木伊賀守長隆。まあ当然とは思うのだが、その次が
波多野備前守元清。将軍に会いに行く時などの晴元の供を務めている。同じく名前
が上がる山中某、柳本も丹波出身だし、赤井の名も見える。この赤井が赤井直正と
は年齢的に同一人物ではないことはわかるが、あるいは一族の人物なのだろう。

こうして見るとかなり丹波衆とのつながりが深いというのがわかる。摂津衆より
も重用していたのではないだろうか。




178: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/23(月) 09:25:25 ID:WnBZBk/8

池田信正を切腹させたのがやりすぎだったのかな




179: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/28(土) 16:10:36 ID:ke2Z418q

>>178
天文十七年って長慶が晴元に叛旗を翻した年だよね
氏綱方についたのは、許せなかったんでしょね
長正って長慶に従うまで、独自の勢力は張ってるけど、
晴元には従ってないよね?

与党は多い方がいいからなあ




181: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/30(月) 15:28:04 ID:F5YQ8O5P

ちょっと>>179もおかしいけど

この天文十七年
・五月六日 信正切腹
・十月 茨木・伊丹を除く摂津国人衆が氏綱・長慶方になる

という流れで、信正の切腹後それほど時間のたたないうちに、池田は長慶方についた




180: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/29(日) 19:39:45 ID:7kjw4LYw

一応晴元は信正切腹後、長正の家督相続を認めている。摂津国人衆は
摂津守護である晴元の被官という位置づけじゃなかったっけ?




182: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/04(土) 19:24:14 ID:QLrQqMp/

まあそうだが・・・、切腹しなくても池田氏は長慶方についていただろうなあ。

ところで、この時の状況で晴元に勝ち目ってあったのか?戦術レベルでうまく
立ち回れば氏綱・長慶方に勝つことは出来たのだろうか・・・。

晴元方は三好政長・政勝親子と伊丹親興・丹波の波多野晴道・南近江の六角定頼か。
定頼が一番頼りになりそうだが、主戦場である摂津から遠いし、波多野は丹波一国
を制圧しているわけではないから、他国に兵をだす余裕はないだろう。
武将としては高畠長直・香西元成あたりか。
将軍も一応晴元方だけど軍事力はあてに出来ないからなあ。
長慶方はほとんどの摂津国人衆や畠山・遊佐達河内衆と、阿波・讃岐の衆を率いる弟達。

江口の戦いの前状況としては、伊丹親興の居城伊丹城はすでに囲まれており、三好政長の
摂津榎並城は年少の政勝が篭っているが、ここも囲まれている。ようやく出陣した細川晴元は
自分の旗本を連れて、攻め落とした三宅城にいる。三好政長・高畠長直・香西元成もここいる。六角定頼
は息子義賢を援軍として派遣しているがまだ摂津に到着していない。
兵力でいえば言うまでもなく長慶方が圧倒的。ただ、伊丹城も榎並城も堅固であり、早々に
落ちる気配はない。
歴史では息子政勝を助けようとした三好政長が、晴元の旗本も連れて出撃、
十河一存と戦い敗北。政長・高畠長直は討ち死。晴元政権は崩壊したのだが・・・。




183: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/11(土) 14:58:35 ID:rK7cnoWk

まあ元々細川の地盤だった阿波讃岐、それと中心をなしていた摂津衆が離れては苦しいよね

さかのぼると元長と晴元の対立が痛いと思う
うまく諸勢力を操るぐらいしないと、仲間どうしで潰しあってては・・・




184: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/11(土) 18:59:37 ID:qasls3uI

それを言うと、もともとが政元暗殺から始まる細川家の内乱から端を発しているからなあ。
晴元だけのせいじゃないだろう。ここまで晴元はわりと諸勢力を操ってきたけど
それも限界だったのだろう。結局力で相手をねじ伏せるやり方でなければ収めきれない
状況に来ていたのかな。信長みたいに外からくる勢力なら摂津衆などが逆らうことがあっても
討伐する力を持っているから、晴元みたいなバランス感覚は必要ないだろう。




197: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/29(月) 13:44:11 ID:3zRXYC1h

晴元の京都奪回戦って3段階に分かれると思うのだが。

第一期1549年江口の敗戦~1553年将軍義輝の霊山城陥落まで。

第二期1553年丹波の攻防~1558年将軍義輝の和睦と還京まで。

第三期1558年晴元、将軍の元から逃亡~1561年三好長慶との和睦。

1552年の晴元出家も一つの区切りではあるのだが、将軍義輝が朽木に逃亡
するまでのほうが区切りとしてはいいと考えたので。
第一期は晴元が活発に行動して、たびたび京都に攻め入っているが、第二期
になると戦場は主に丹波に限定され、丹波を守る戦いになる。その丹波も
頼みの波多野氏の八上城が落ちると、大部分が占領されてしまい晴元の勢力は減退する。
将軍還京後の第三期になると、ほとんど晴元の動きは見られず1560年には長年の
家臣だった香西元成を山城で失い、最終には和睦に至る。徹底抗戦の三好政勝は健在
だが、政権を取り戻すのはかなわないと考えたのだろう。




219: 人間七七四年 2007/02/22(木) 19:39:42 ID:i5kM24Gt

>>197
いつも兵が足りなくて、三好軍に踏み潰されるイメージだな。
丹波みたいに地の利を生かした戦いならまだしも、京都周辺で
決戦を挑む兵力がなければ三好軍に勝つのは不可能だろう。




216: 人間七七四年 2007/02/22(木) 10:30:06 ID:dbyHowFX

細川と大内の対戦成績はどうなの?




217: 人間七七四年 2007/02/22(木) 13:38:40 ID:RKK2DGml

対戦か・・・。船岡山合戦で大内側が勝利。
晴元は大内とは直接抗争していないしなあ。




218: 人間七七四年 2007/02/22(木) 14:55:19 ID:zndSepVD

晴元の代になると、将軍家や三好との抗争の方がメインか。




221: 人間七七四年 2007/03/04(日) 12:24:08 ID:VdCiris/

細川藤孝は晴元に会った事はあるのだろうか。
足利義輝に仕えていたのだから会った事はあるのだろうが、その目には
晴元はどう写ったのだろう。




222: 人間七七四年 2007/03/05(月) 11:46:34 ID:LtndIQNg

天文二十二年~永禄元年の約五年間、義輝、晴元ともに近江朽木にいたから、
藤孝ともここで接触があったでしょう

ちなみに藤孝が従五位下兵部大輔になったのが、天文二十二年
養父元常が没し、上守護家を相続したのが天文二十三年

>どう写ったのだろう
これはわかりません
この朽木時代は、京兆家(宗家)と上守護家(分家)の当主どうしですから、
近しい間柄ではあったんでしょうけど




224: 人間七七四年 2007/03/06(火) 13:35:14 ID:5XXni0OH

細川藤孝は将軍に直接仕えていたんだよな。
晴元に仕えるとか、なかったのか?一応分家の人だし、本家に仕えることも
あるのでは?まあ藤孝が成長したころは、晴元は落ち目だったけどね・・・。




225: 人間七七四年 2007/03/06(火) 13:44:54 ID:BZZVxowg

和泉細川家は、晴元・三好と氏綱の争いの時、氏綱についてたよな。
その後、三好・氏綱と晴元の争いの時に晴元について和泉から追われたんだっけか。
なんか和泉細川って貧乏くじ引きまくりじゃないか。
藤孝よくがんばったな。




226: 人間七七四年 2007/03/06(火) 14:12:37 ID:5XXni0OH

そうか。まあ細川家の政権没落後は本家とかそんなことよりも生き延びることの
ほうが大切だし。

そういえば、晴元と将軍が敵対した一時期(1552年ごろ)、若き細川藤孝と
細川晴元が合戦をして、藤孝がさんざんに打ち破られたという話を聞いたこと
があるのだが、本当かな?




238: 人間七七四年 2007/03/31(土) 14:30:25 ID:FFrtWOCK

わがまち池田というHPに・・・、
ttp://www.ikedaya.com/wagamachi.html
>六郎晴元は、管領という将軍の執政の立場であり、将軍を政治・軍事的に補佐する立場にありましたが、
>その目的から離れて、管領職に就く事そのもので争いを繰り返していました。
>これを巡って周囲の者達も離合集散し、その利益を測るという、正に戦国時代の中心となって、
>日本全国を争いの世にしてしまったのです。

>その間にも、右京大夫晴元側近同士の不和があり、三好政長と同名長慶が、
>同族でありながら互いに非分を主張して事態の収拾がつかなくなっていました。
>しかし、この時長慶の言い分に大儀があり、政長は隠居(その後宗三を名乗った)
>する事として家督をその嫡子新三郎政勝に譲り、一応の社会的責任行動はとりましたが、
>問題解決とはなりませんでした。

>そんな状況での晴元は、冷静で公正な判断を欠き、当時の社会通年を大きく越えた裁定を下し、
>謀反を企てた咎として、筑後守信正を切腹させます。 この事は、晴元・氏綱の和睦が成立して直後の事であり、
>且つ、筑後守信正は出家と等しい入道となって恭順していたにも関わらず、最も重い罪を科したという結果に、
>社会的な疑問が投げかけられました。これは、晴元の政治的な能力を問われる象徴的な出来事となってしまいました。

>また、摂津国池田家と姻戚関係でもあった三好宗三政長が、池田家を擁護するどころか、
>その財産を私有化しようとしていた事について、問題視されていましたが、これを容認した晴元は、
>更に社会的信用を失い、天文17(1548)年8月12日に三好長慶は、晴元など関係者へ直訴を行う事態となりました。

なんか酷い言われようだが、間違ってもいないようだな・・・。でも長慶の言い分の大儀がありって
なんだろう?あと、三好政長が池田家と姻戚関係にあったのも事実だが、池田家当主の殺害を
なんで晴元に言ってやめさせようとはしなかったんだろう。やっぱり土地を奪うため?
なんかこのままの文章をみるとすごい悪役だなあ。




239: 人間七七四年 2007/04/01(日) 00:00:18 ID:+vJuRTtB

>でも長慶の言い分の大儀がありってなんだろう?
河内十七箇所代官職の話じゃないか?




240: 人間七七四年 2007/04/04(水) 22:01:51 ID:wSvU9SFm

そうか。しかし晴元にとっては自分を仇と狙う者になるべく力を与えたくない
と考えるのもまた事実。しかしそんな長慶に助けられていたのも事実。
ただ、晴元を助ける戦いの中で長慶の武名もあがっていったのも事実だろう。




242: 人間七七四年 2007/04/13(金) 04:28:24 ID:lImpTdf/

>>241
政元からだね
日野富子も加えてもいいかも
明応の政変で全てが崩れてしまった

義尚や義材はがんばったよ




243: 人間七七四年 2007/04/13(金) 22:28:46 ID:VH+MLr67

いやまあ、こういう風に地位を争った人ってよくこんな言われ方をされるよね。
じゃあどうすればよかったのかな。何もせずにどこかでひっそりと暮らせば
よかったのかな。




244: 人間七七四年 2007/04/16(月) 09:49:59 ID:7gfq+BV4

上位を争うから、政争や戦も起こる訳です。
何もしないと、後代の我々の目には止まらない可能性が大ですね。




245: 人間七七四年 2007/04/16(月) 21:13:14 ID:wtdAOij1

でも父の無念を晴らすという考えを晴元が捨てるとは
思えないしな。




246: 人間七七四年 2007/04/17(火) 10:57:39 ID:J8K7MZJm

晴元が心に抱く父の無念、長慶が心に抱く父の無念

ここらが絡まりあってるから複雑になるんだよね




247: 人間七七四年 2007/04/22(日) 12:31:12 ID:cxj2sRv6

阿波勢力排除は晴元の基本路線だったのに、頼るべき摂津国人衆がふらふら
していたせいで、結局三好長慶に頼らざるをえなくなってしまった。

木沢長政がもう少し晴元よりだったら、阿波勢力の拡大を阻めたような気がするが・・・。
でも晴元も摂津国人衆の反発を招くような政策をとっているし、難しいな。




248: 人間七七四年 2007/05/10(木) 15:40:24 ID:hy1tH0FZ

晴元政権の中心人物は、茨木長隆のようだね
江口までの話だけど




249: 人間七七四年 2007/05/10(木) 16:13:26 ID:EuoMi0Mx

江口以降は長隆も氏綱側につくからね




250: 人間七七四年 2007/05/10(木) 16:26:13 ID:hy1tH0FZ

>>249
江口で没落して、姿を消したと思っていたんですが(今谷の本)、そうなんですか
よろしければ事績を教えてください




251: 人間七七四年 2007/05/10(木) 16:48:11 ID:EuoMi0Mx

>>250
天文22年に長隆が氏綱の奉行人として丹波方面に発給した文書が残ってる
(多分、今谷氏が書かれた時には氏は未発見だったと物だと思われ)
具体的な事績は史料が少なすぎてわからんが、
少なくとも氏綱側に与したことだけは確か




253: 人間七七四年 2007/05/11(金) 15:45:30 ID:Gh3OROO7

>>251
ありがとうございます
天文二十二年頃といえば、氏綱ー長慶の政権の時だから、長隆は寝返ったということになるんでしょうね




252: 人間七七四年 2007/05/10(木) 23:41:26 ID:DMOv7lK0

氏綱の業績ってなにかある?




253: 人間七七四年 2007/05/11(金) 15:45:30 ID:Gh3OROO7

>>252
初期においては畠山稙長などを味方につけ、晴元と対抗
長慶と結んでからは、言えば傀儡でしょうか




254: 人間七七四年 2007/05/11(金) 21:37:30 ID:2KSUs0AW

まあ今谷氏の本では、奉行としての茨木長隆を少し持ち上げすぎな
感じもあるけど。晴元自身での考えもあるだろうし。
寝返ったと言っても、積極的に晴元に対して敵対行動をした様子はないし、
言うなれば氏綱方で安定的な生活を送りたいだけというイメージかな。
寝返ったところでかつてのような役職に就けるわけでもないし。










255: 人間七七四年 2007/05/12(土) 10:30:36 ID:RYfloEu0

なるほどね
史料がなくてわからないでしょうが
・本人の保身(言い方は極めて悪いですが)
・奉行としての能力を買われた
というところかな




256: 人間七七四年 2007/05/12(土) 19:41:21 ID:qxSlG7Hv

木沢長政は1542年敗死、頼みの三好政長は1549年江口で死亡、
高畠信直ら旗本らも多くはこのときに敗死。茨木長隆は離脱。

家臣をかなり失いながらも10年余り戦い続け・・・。
それこそ堺上陸ぐらいからの武将である香西元成も1560年に討ち死に。
この時点での配下って三好政勝ぐらいしか残っていなかっただろう。
この後に三好長慶との和睦に動いたのもわかる気がする。




257: 人間七七四年 2007/05/12(土) 21:10:08 ID:qxSlG7Hv

ごめん、高畠長直だった・・・。




258: 人間七七四年 2007/05/18(金) 15:02:43 ID:RKsBLI8T

長直は大和出身みたいだけど、実際大和で影響力はあったのかな?




259: 人間七七四年 2007/05/19(土) 01:55:16 ID:WZx7jBHd

高畠氏の苗字の地は山城国鳥羽高畠庄だから、山城出身じゃないのか?




260: 人間七七四年 2007/05/20(日) 11:59:21 ID:bkSyyJaF

蜷川親俊の日記には桜の花見で、高畠長直と京の町衆が、酒の席で酔っ払って
喧嘩したとか書いてある。殺伐とした時期だけに、こういうところはほのぼの
するな。




261: 人間七七四年 2007/05/22(火) 16:00:42 ID:tq5e5ZgJ

戦国期は武家、公家とも京の町衆との距離が近かったそうですね




262: 人間七七四年 2007/06/21(木) 20:28:23 ID:VnE7uf5h

1540年、細川晴元が施餓鬼を行ったと言うが、どんな規模だったのかな。

あと、盆踊りを踊ったとかも伝えられているが。




267: 人間七七四年 2007/08/10(金) 21:58:43 ID:lueGNmBb

自分の外祖父を間接的に殺したりなかなかえぐいこともやってるな。
この時代の畿内では目立つことではないけれど。




268: 人間七七四年 2007/08/11(土) 20:09:55 ID:s6qPUTqI

外祖父?元長のことか?
三好氏とは、晴元は畿内上陸以来から確執や争いがあった。
阿波衆と摂津衆は相容れぬ中。どちらかに立てばどちらかを敵にまわすしかない。
阿波衆の側に立って敗北した父澄元を見ていれば、どちらに立つかはおのず
と明らかだったのだろう。恩知らずと言われるかも知れないが、元長の側にも
摂津衆と協力しようという姿勢は見られなかった。共通の敵である高国が滅びれば
争いは必至。晴元のほうが先手を打ったに過ぎない。




269: 人間七七四年 2007/08/11(土) 21:48:31 ID:DGwj5Fh8

>>268
晴元の外祖父は畠山義尭




270: 人間七七四年 2007/08/12(日) 13:11:19 ID:CIjpnLBe

畠山義尭は晴元の姉婿だから、外祖父とは呼ばないのでは・・・?

まあしかし、この時はそういった縁よりも成長著しい木沢左京亮と組み、
「縁故者よりも新参者をとるのか」と言われたものだったな。晴元は
政治的な判断を下すのに迷いがないというか、有利と判断したら即決なのか、
後の法華宗に対する態度も少々冷たい部分があるのかもしれない。




271: 人間七七四年 2007/09/01(土) 07:32:06 ID:YlEnIIuI

木沢左京亮長政は、晴元に信頼されていたのだろうか。
三好長慶に対抗できる勢力として期待していたのでは・・・。




272: 人間七七四年 2007/09/22(土) 19:11:28 ID:pWxLrxyx

信頼はしていないが手駒として期待した……じゃね?




278: 人間七七四年 2007/10/15(月) 16:12:24 ID:JIhVR/vk

>>272
晴元が心から信頼したのは香西元成ぐらいじゃない。




288: 人間七七四年 2007/11/24(土) 09:43:14 ID:uIteKINS

>>278
三好政勝は1561年の六角義賢の京都進攻において、柳本賢成とともに晴元党として参加している。すでに晴元自身は降伏していたが、政勝は晴元家臣の最後の生き残りとして位置付けられるのか?




279: 人間七七四年 2007/10/15(月) 16:43:00 ID:G8SPs/ND

晴元の子「信良(昭元)」と信長の娘「お犬の方」が結婚したのは15777年だが、
細川元勝(頼範)の生年を見ると1561年になってる。

元勝の母親はお犬の方とは別人かな?




280: 人間七七四年 2007/10/15(月) 16:43:45 ID:G8SPs/ND

>>279
誤:15777年 → 正:1577年




281: 人間七七四年 2007/10/15(月) 17:24:22 ID:HwGuQyBu

>>279
なかなか面白いところに気がつきましたね
確かにお犬の方輿入れは天正四年(1576)のようですね

すると
・頼範の生年が違うのか
・母が違うのか でしょうが・・・




282: 人間七七四年 2007/10/16(火) 10:07:37 ID:Ataf/MRd

わからんが わからんなりに考えてみると。
信良の生年が1548年とすると元勝誕生時は 数え14歳
ありえなくはないが ちと早いかも

1561年当時信良は三好のもとにいた
側に織田の娘があるはずもなく
先例をみると 公卿とか 幕府の重職とか 六角とか

しかし後世に名を残していないとなると
早く亡くなったのか 家柄がよくないのか などなど




283: 人間七七四年 2007/10/18(木) 20:13:49 ID:J930E4DT

三好氏の庇護下にあったのなら、女を配したのも三好の可能性もあるのか。しかし、その生年が事実なら、晴元は孫の誕生を知っていたことになるが・・・。




285: 人間七七四年 2007/10/25(木) 14:30:52 ID:0h+e+2NT

>>283
いろいろ考えてみると、元勝の生年があやしいな、と思う今日この頃
三好の姫を配したら、記録に残りそうなものだし




286: 人間七七四年 2007/10/25(木) 21:55:15 ID:kMyMPPLg

元勝(頼範)の生年が載ってる一次資料って、何があるんだろ?




287: 人間七七四年 2007/11/10(土) 14:57:10 ID:P5g0EIJm

出てこないね




290: 人間七七四年 2007/12/09(日) 18:12:27 ID:KpAy+7y6

昭元て三好長慶に育てられたんだよね。昭元は養父の長慶の事をどう思ってたんだろ




291: 人間七七四年 2007/12/09(日) 19:09:13 ID:s/QwuhGm

長慶は昭元をないがしろにすることはなかっただろうし、生後2年で父晴元
と離れ離れになったこともあって悪くは思っていなかっただろう。




292: 人間七七四年 2007/12/10(月) 16:13:12 ID:mSCWZJAK

晴元はなかなか執念深い人だけど、
昭元は三好→織田→秀吉と器用に世渡りしている印象が




293: 人間七七四年 2007/12/11(火) 00:38:17 ID:Z4PctdJn

執念深いも何も自分を蹴落とした者に戦いを挑むのは当然かと。それに晴元を追い詰めるのに10年を要した三好長慶にも問題があるわな。後、ほぼ生まれた時から傀儡だった昭元と生涯戦いの中に身をおいた晴元ととでは比べるのが間違っていると思うぞ。




294: 人間七七四年 2007/12/13(木) 02:31:31 ID:1kmjrGMA

長慶最後まで晴元殺さなかったな。
やっぱ元主君を殺すのはしのびなかったのかな?




295: 人間七七四年 2007/12/13(木) 17:17:17 ID:al0IiiUL

どちらかというと長慶の方が恨みが深いはずなんだけどね、親父殿の仇として




296: 人間七七四年 2007/12/15(土) 13:12:42 ID:0KMpCzy7

仇といえば三好政勝にとって三好長慶は父の仇だからな。まあ言い出せばきりがないが。






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