みちのく瓦版

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細川晴元について語ろう その1

oiuds
1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/11(日) 19:27:53 ID:gbCJOrNX

戦国中期の畿内の支配者。三好長慶に敗れたけど無能じゃないよ!

多分。






米政府「今年は真珠湾攻撃75年の節目。我々は安倍の真珠湾訪問を歓迎する。というか来い」

【毒親】外国人の母親に人生をめちゃくちゃにされている

広島の厳島神社で鳥居に触れた際の不思議な感覚

圧迫面接と大ゲンカしてきて震えてる

【!?】佐藤秀峰「海猿をネットで11円で売ったら印税1億3000万貰えた」

【悲報】ベネッセの教育漫画、子供にとんでもないケチをつける

【超速報】ピザ屋から何か届いたwwwwwww

3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/11(日) 19:29:28 ID:7GPbHwYf

この人は評価が分かれる人物ですね




4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/11(日) 19:32:49 ID:gbCJOrNX

どっちかっていうとあんまりイメージよくないかも。

自身で兵を率いて戦ったこともあるのに、信長の野望では公家さんの
かっこして口調は「まろ」。がっくり。阿波で14歳までを過ごしたのだから
まろはないだろうと思った。




13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/15(木) 14:04:33 ID:pXsZtosG

細川晴元か

それより衰退の遠因は勝元にあり
直接の原因は、政元が澄之、高国、澄元と三人も養子をとったことにあるんじゃね?




15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/15(木) 18:35:34 ID:76PJnzbn

念力で宙を浮いてたからねえ。後醍醐といい奇特な人が多いな立川真言流




16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/15(木) 20:03:56 ID:VczBJg8o

女を近づけるなとか。そりゃ跡継ぎで揉めるわ。




17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/16(金) 00:24:11 ID:BJ0wM37N

あと、土食ったり、旅行に行ったり




18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/17(土) 00:55:42 ID:8drgdya3

細川京超家は江戸時代は何してたの?
明治に入って華族に列せられたりはしたの?




19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/17(土) 11:50:19 ID:wy/Bopv2

京兆家ですか

管領職は高国養子の氏綱で最後、永禄二年(1563)の死去により廃絶

少し後まで生き残ったのは、澄元ー晴元系
晴元の子昭元は信長のもとで蹴鞠の相手
昭元の子頼範は秀頼に属し、大坂の陣で敗戦、竜安寺→大和高島に退去




20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/18(日) 13:45:51 ID:wOZK44eV

細川澄元、細川高国、細川晴元・・・
どれもぱっとしないなぁ・・・




22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/18(日) 19:19:27 ID:d5CAC8br

まあぱっとしているほうが人数少ないんだから。

ところで晴元って管領に就任していないって本当?




24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/19(月) 15:04:17 ID:9PTVnzhY

>>22
天文五年(1536)~同十八年(1549)に管領じゃないかな?




25: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/20(火) 09:25:14 ID:xctR9JiA

いや、その年に右京大夫にはなってるけど、管領に任命されていない可能性があるらしい。

実際、幕府の官僚だった当時の蜷川氏の日記には晴元を管領と呼ぶ記述が一つもない。




27: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/20(火) 13:19:59 ID:ACJXcLWi

>>25
あと晴元の奉行人の署名が「管領代」じゃなくて「右京兆代」だったりね
右京大夫就任で、実質的に管領並と見なされていたようだけど

ついでに晴元といえば、なかなか偏諱が貰えなかった為に
「晴元」という名前になるのも随分後のことだったりもする
通説が先走っている人物だね




26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/20(火) 10:58:18 ID:YqF7QtWp

管領に相当する地位に就く、ってのもあるけど
よくわからないね




28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/20(火) 13:33:37 ID:BIHFjitl

というか、この人阿波での14年間何してたんだっけ?
あと「晴元」になる前は「聡明丸」で通してたんだろうけど、元服はいつだったの?




30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/20(火) 15:32:49 ID:ACJXcLWi

>>28
「晴元」の前は、書状への署名を見る限りでは
義晴の偏諱を貰えるまで「六郎」で通してたっぽい




29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/20(火) 13:58:32 ID:YqF7QtWp

大永六年(1526)に堺で元服したらしい

しかしあれだね
勝元ー政元ー澄之ー晴元とみんな聡明丸だね
昭元もかな






30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/20(火) 15:32:49 ID:ACJXcLWi

>>29
昭元も聡明丸だよ




31: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/20(火) 17:19:12 ID:P5oXfjLR

嫡流の子供はすべて聡明丸だからな。
しかし澄之は17歳で討死にして子供はいない。阿波出身の澄元は自分の子供に
聡明丸を名乗らせた。1512年当時は高国との抗争が続いていた時期だったから暗に
自分の系統が嫡流だと主張していたんだろうな。

六郎というのも京兆家当主の通り名かい?




32: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/20(火) 21:22:25 ID:zA1Ied7h

京兆家嫡が代々聡明丸なのは、
京兆家始祖頼元の童名が聡明丸だったことに由来するようだね

>>31
同じく京兆家当主であった政元の通称は九郎、澄之もこれを継承している
澄之を排して京兆家督を相続した澄元が六郎、晴元はこれを継承している

念のためにざっと尊卑で六郎を探したら、
稙国・満国・持春・教春・政国・勝之・教祐・成之などがいた
京兆家始祖頼元は五郎だし、六郎の面子を見ても京兆家当主が六郎というわけでもない




35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/22(木) 11:11:21 ID:ji26Xp05

32だけど
頼元は三郎だったね、間違いすまん




34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/21(水) 20:31:51 ID:E8J9jmKV

なるほど。しかしこの人、生まれてから畿内に来るまで阿波でどんな暮らしをしていたんだろう。

庇護者の三好元長は晴元より13歳くらい上だし、父親代わりとかになってなかったのかな。
まあ畿内上陸後の仲の悪さを考えるとそれはなさそうか。




37: 中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y 2006/06/22(木) 22:28:03 ID:buIHqwYT

六郎だの聡明丸だの名乗って対外的に京兆家家督をアピったつもりだったんだろ
だがぬるい。ぬる杉。そんな名前を僭称するくらいなら
細川清氏を見習えよくそヴぉけ晴元!!!!!

と言いたい




38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/23(金) 14:15:41 ID:qTHjeON7

阿波の暮らしは全くわからいけど・・・

元長の祖父之長が高国に敗死したのが永正十七年(1520)五月
翌月には晴元の父澄元が阿波で死去

時に元長二十歳、聡明丸七歳(元長の父 長秀は永正六年に敗死している)
それまで澄元と之長は、対高国戦で行動をともにしており、
ましてや三好も失意のどん底にあるわけだから、
元長から見れば晴元は再起の切り札、掌中の玉
大切にしたんではないでしょうか

翌年には義稙も阿波に流れてきて、切り札は一枚増えましたが

後の晴元と元長対立は、元長側から仕掛けたものではなく
堺入りの力となった、柳本賢治、波多野稙通、木沢長政と元長の対立から来ました

大永七年(1527)八月に元長が阿波に帰国したのは、柳本らの讒言を晴元が信じたためですし、
晴元に懇願され復帰し、高国を滅ぼしたまでは良かったが、
又も木沢らの讒言を晴元は入れ、天文元年(1531)に元長は敗死するわけです

ここから浮かびあがるのは、元長は晴元を軽んじてはいないこと、
逆に晴元は元長が疎ましかった、ということかと

ある意味長慶が父の仇と晴元を思っても、仕方ないですねこれじゃ




47: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/24(土) 15:30:41 ID:AXrsvYi0

>>38
確かにその通りだが、高国という共通の敵がいる以外に、この両勢力が協力
することなどあり得ない。結局晴元は自分の支持基盤としてどちらかを選ぶ
必要に迫られたのだから、長慶の仇の話は個人的感情を出るものではないだろう。

そしてかつて父澄元が、阿波勢力を嫌う畿内勢力に叩き出されたために
二度と京に戻る事がかなわなかったことを知っている以上、いかに年少
とはいえ畿内勢力と組むことをためらうとは思えない。

元長は晴元をないがしろにしてないというが、元長は高国との戦いで戦死した
柳本賢治の遺児を、晴元が家臣に取り立てようとした矢先に兵を出して殺している。
これは畿内勢力との協調を拒むものとして晴元を激怒させている。このことが
一向宗を動かす契機になったと思うけど。





57: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/26(月) 15:01:47 ID:N5ClZGxM

>>47
晴元が軸足を畿内勢力に移したと理解します
その判断が良かったのか悪かったのかは、別ですが




39: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/23(金) 15:22:02 ID:gunWT5yK

>堺入りの力となった、柳本賢治、波多野稙通、木沢長政と元長の対立から来ました

茨木長隆などの摂津衆もこれに入るかと

柳本などは山城守護代職を元長と争っている経緯もあるね
ましてや高国を追いやる事が出来たのは、香西元盛讒死をきっかけに
波多野・柳本兄弟が高国から離反し、阿波衆と連携したことが大きい
それなのにその後に自分達より重んじられる元長ら阿波衆を、
この兄弟は苦々しく思っていそうだ




44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/23(金) 23:51:02 ID:ZRxeQwd3

史料に残っている晴元の名称

『厳助往年記』永正8年3月21日条
「(前略)宗明御供三好巳下其勢八千余云々」宗明とは聡明丸もしくは聡明六郎ととれる

『ニ水記』大永元年3月18日条
「風聞和泉堺六郎上洛和談事不事調儀令治定仍為三好合力京勢数多令下向云々落着事候儀也」

享禄3年9月20日付綸旨案は細川六郎宛になっている

「本満寺文書」天文2年(推定)10月20日付の軍勢督促状の発給人名は「六郎」
「広隆寺文書」天文3年10月7日付の奉行人奉書の発給人名は「六郎殿代 諏訪長俊 飯尾堯連」
「玉林院文書」天文4年11月18日付の安堵状の発給人名は発給「右京大夫」




45: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/24(土) 00:42:03 ID:KBPkMWmm

諱さえ機能しない時代があったということか?




46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/24(土) 00:54:35 ID:r+oq5bmn

>>45
機能はしていた
ただ世情的に将軍一字拝領申請が出来ない状況だっただけ

晴元に限らず、伊達稙宗にも同じ状況が見られる
左京大夫官途申請と将軍一字拝領申請が遅れ、
家督後も永正14年まで伊達次郎で通していた




48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/24(土) 17:19:46 ID:r+oq5bmn

>>47の意見には大筋で同意だ
だが阿波勢力ではなく畿内勢力を支持基盤に「選んだ」のではなく、
晴元が京兆家家督を自称する以上は、晴元にとっては京兆家の分国の
丹波・摂津が一番の支持基盤であるのは至極当然なではないのだろうか。

柳本遺児の登用も、丹波で一定の勢力を誇る波多野・柳本・香西などとの
結びつきを一層強めることで、丹波方面への自らの影響力を強めたかったのだろう。
茨木長隆らの摂津衆を多数新規に登用するのも同様。


…どうでもいいが三好政長って畿内の連中と仲いいよな。そりゃ晴元に可愛がられるわ。





49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/24(土) 19:22:18 ID:dAOiqfHI

確かに。どうして三好一族なのにあんなに仲いいんだろ。桂川の戦いでも
波多野・柳本・香西らと一緒に戦っているし。




51: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/24(土) 23:21:52 ID:zEERhn9O

>>49
茶飲友達人脈だろw




50: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/24(土) 22:21:45 ID:RRkh3DAO

こいつをさっさと殺しておけば、長慶も無駄な時間を費やす事なく勢力拡大できたのにな。




52: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/25(日) 11:48:21 ID:QbGrjEgu

興味があるんだが、勢力関係がわかりにくい…。
政元時代から勉強したほうがいいのかな?




53: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/25(日) 13:21:33 ID:2czeMF/A

確かにややこしい。流れを説明すると・・・。

政元、将軍を追放・首の挿げ替えで権力を握る。
         ↓
後継者争いで、養子の澄之に政元殺される。
         ↓
その澄之も、もう一人の養子澄元に殺される。
         ↓
その澄元も、さらにもう一人の養子の高国に京都から追い出される。
         ↓
澄元と高国は争うが、最終的には高国勝利。澄元は死亡。
         ↓
数年後に澄元の遺児晴元が高国に戦いを挑み、高国敗死。晴元が細川家家督に。

こんなもんか?わかりやすく書いてみました。




58: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/26(月) 16:15:28 ID:Mg6gmxkR

じゃあ三好元長について行く!という判断をしたとして
その先はどうなったのだろう。畿内の諸勢力を阿波の兵だけで
排除できたのだろうか?そもそも元長がいつまでも使われ続ける立場
かどうかも怪しいしな。先の事はわからんね。




60: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/26(月) 17:18:08 ID:rzPcVACt

>>58
晴元が畿内諸勢力を全て敵に回したとしたら、
早い時期なら細川晴国、後なら細川氏綱につく勢力が圧倒的に多数になり、
良くても再び阿波に逼塞の憂き目かと




59: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/26(月) 16:25:05 ID:N5ClZGxM

木沢なんて策士だから
元長とともに晴元も葬られる可能性が大きいかな、確かに




60: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/26(月) 17:18:08 ID:rzPcVACt

最悪パターンは>>59の言う通りになりそうだな




61: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/26(月) 18:55:45 ID:P/7iuB9k

結局、敗退した父を見ている以上、それが最良の選択肢だったんだろう。
>>57の言うように判断が悪いことがあるとは思えないな。確かに最終的に
三好長慶に負けはしたが、約20年畿内を支配したのは間違いない事だし。

三好も少し畿内を意識しすぎだったんじゃないのか?だから長宗我部に結局は
滅ぼされてしまったんだよ。




62: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/27(火) 15:19:24 ID:KyQMU1Dy

政元 明応二年(1493)義材追放ーー永正四年(1507)殺害
澄之 永正四年(1507)相続ーーーー同年戦死 その間二ヶ月
澄元 永正四年(1507)相続ーーーー永正五年(1508)近江に落ちる

高国 永正五年(1508)入京ーーーー永正十六年(1519)近江に逃れる

澄元 永正十七年(1520)入京ーーー同年阿波へ逃れる その間二ヶ月

高国 永正十七年(1520)入京ーーー大永六年(1526)近江に逃れる

晴元 大永七年(1527)堺に入るーー天文十八年(1549)近江に逃れる

高国の敗死とか晴国の存在とか、抜けているところもありますが

高国が長いかと思っていたが、>>61の言うとおり晴元が長いんですね




64: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/27(火) 21:51:59 ID:0h41XHtP

晴国は氏綱の前段階という感じ。

晴元は子供のころから50近くまでひたすら戦い続きという感じか。父澄元、
祖父政元、曽祖父勝元より長生きしたのにねえ。




66: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/29(木) 15:26:46 ID:c8YDLsMo

氏綱か
最後の管領ですね
晴元はバランスとってたからまだ力がありましたが、氏綱は長慶頼みの傀儡管領

晴元の晩年は失意のどん底かor悟りの境地か?




69: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/29(木) 18:48:16 ID:GyzKOE9J

>>66
う~ん、最終的には降伏したような感じになったけど、それまで約10年間戦い続けていた
訳だし、力は出し切ったんじゃない?1561年時点では、忠臣だった香西元成もすでに亡く、
一方の将、三好政勝は健在だけど、活動拠点の丹波の大部分は松永長頼に制圧されていた。
抵抗は続けられない訳じゃないけど支持基盤は確実になくなっていたし。
残る方法は六角に援軍出してもらうぐらいだけど、将軍は長慶の手中だから六角が動く
可能性は低いし。まあ潮時な感じもする。しかし長慶は晴元より先に死んでいたら
話は違ったかも。没年は一年ちがいだしな。




70: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/30(金) 14:18:59 ID:AtgfdWEb

>>69
長慶が先に死ぬ・・・
晴元は有力な家臣も勢力圏も失ってるから、
もう気力がなさそう
相手が久秀だし、下手打てばさらに哀れな末路が・・・




67: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/29(木) 16:18:28 ID:iIF3agsg

管領家の妾腹と、庶流の嫡男どっちが格上なんだろう。




68: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/29(木) 16:47:20 ID:c8YDLsMo

普通に考えると

阿波とか和泉とかの守護のほうが高いと思う

適当な言葉が見つからないが、江戸期の部屋住みみたいなもんでしょ、管領家の妾腹って
庶子でも京兆家相続すれば、ガラリとかわるでしょうが




72: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/02(日) 16:51:02 ID:fSoAguT+

宗教勢力の対応に苦慮してるよね

法華一揆
一向一揆
比叡山




73: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/03(月) 21:33:04 ID:7iQbtQ0x

確かに苦慮した。しかし、うまく利用もしたな。三好元長を倒せたのも一向宗
を動かしたおかげだし、法華宗は比叡山の協力で京都からたたき出した。
全てうまくいっていたわけじゃないけど。




74: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 16:03:51 ID:3Xi8BDOk

と言うか利用したつもりで、手を出してはいけないものに手を出してしまったのでは
一向一揆は元長を敗死させ図に乗って暴れ出すし
しかたなく法華衆と組み山科から追い出したが、両門の争いは続き
ようやく講和したあとの平穏は、松本問答に端を発した比叡山の進攻で破れ、
京の大部分を焼く始末・・・

こんなことしてるから勢力が自身の弱まるわけよ




75: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 16:04:34 ID:3Xi8BDOk

自身の勢力ね・・・
ごめんなさい




76: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 17:18:10 ID:3Xi8BDOk

連投申し訳ないけど

やはり細川、ひいては畿内の更なる混乱は政元が原因と思う
斯波、畠山の身内同士の争いを散々見ているくせに、
澄之と澄元の両方を養子にしたんだから




77: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 17:22:48 ID:8dvJg8e+

一向一揆の暴走が有力被官を多数敗死させたことで、晴元の勢力は確かに削がれたように思う。

しかし法華一揆に関しては、当時の武家の不在が続く京都において
法華一揆が武力をもって自治権を行使し、その勢いは武家をも凌ぐほどであったこと考えると、
晴元が京都に入るためには何よりもまず法華一揆の勢力をそぐ必要がある。
その為に法華と対立していた一向一揆にぶつけ、更にとどめに山門と佐々木京極をぶつける。
天文法華の乱以降、法華一揆が立ち上がることがなかったことからも、
自身の手を汚さずして法華の徒をここまで押さえ込んだやり口は老獪ともいえるんじゃないだろうか。

一向一揆にしろ法華一揆にしろ、晴元がまともにぶつかったら更に大事になってたんじゃないか?
信長も一向一揆だけであれだけ手を焼いてるんだし。




78: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 17:35:38 ID:3Xi8BDOk

ごめんね細かいことだけど、六角だと思いますよ

対畠山義宣で証如に援助を依頼しなければ、どうなっていたか・・・と言いたいだけです
その後の一向一揆がどうなったか予想できないので、なんとも言えないけど
まあここらで・・・




80: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 18:59:35 ID:8dvJg8e+

>>78
・畠山義宣に木沢長政が討たれる
・勢いに乗って畠山が和泉にも侵攻
・和泉の荘園をかねてより狙っている根来も加勢
・和泉一国奪われる

というパターンもあるかも。
堺が押さえられたら相当痛そう。




81: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 20:29:40 ID:oCIYcKoe

一向一揆を巻き込んだのは
やむにやまれぬ判断かもな




82: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 20:59:59 ID:iWjeskZ8

確かにどんな事態が起こるかわからなかったが、畠山義宣ー三好元長を
潰すのに、兵力の乏しい晴元には他に選択肢があったとは思えない。

その後、宗教には宗教をぶつけるというのはある意味ごく自然な成り行きかも知れない。




83: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/06(木) 15:25:36 ID:2xTx23mS

この頃の畿内情勢は複雑で本当に面白い




93: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/13(木) 17:50:23 ID:AHjEoA4W

木沢長政の評価ってどうなのかな?




94: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/13(木) 18:49:57 ID:TyfDpMFq

>>93
極悪人以外有り得ないでしょ。




95: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/13(木) 20:30:01 ID:InkKLUVq

んなこたーない。




96: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/14(金) 17:14:58 ID:B2VjxR1O

木沢は畠山から始まり、コロコロ動く

まあこのころの畿内はそういう人が多いが




97: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/15(土) 03:17:07 ID:6HaMF9eM

赤沢朝経とか柳本賢治とかのこと?




98: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/16(日) 20:19:54 ID:Rrr3Clpx

赤沢はなんか一揆を鎮圧し損ねて殺されちゃったんだっけ?政元の家臣という
イメージしかないな。

柳本賢治は畿内の利害関係に忠実というか、反三好、反細川高国という路線
を突っ走ってこれまた浦上村宗に殺された。

木沢は、上にのし上がりたくて色々やったような感じだな。主筋の畠山を晴元の
力を利用して越えて、宗教戦争のなかでも活躍して、実質的な晴元政権のナンバー2
くらいの位置につけた。もうこれくらいでよかったのになんで晴元に逆らうこと
をしたんだろう?反旗を翻せば必ず三好が潰しにかかるのはわかっていただろうに。




99: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/16(日) 20:42:25 ID:hxyPQF5b

柳本賢治をどうしても「やなぎもとけんじ」と読んでしまう。




109: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/21(金) 13:30:37 ID:2ZFF2Zar

どちらかと言うと、晴元は精一杯やったけど、ダメでしたって感じ
落日の細川家を守るのに必死
ちょっと左右にぶれるのが難点だけどね




110: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/22(土) 12:53:27 ID:+Wlq7/4O

ぶれたというとどこらへん?




111: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/23(日) 01:23:31 ID:KEmyramc

基盤とする勢力が一定でないこと
バランス感覚ともいえるけど




112: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/25(火) 12:01:01 ID:tTSLRCJy

堺幕府→三好元長・柳本賢治・丹波勢

天文法華の乱→三好政長・木沢長政・摂津衆

氏綱との抗争→三好政長・三好長慶・摂津衆(離合集散あり。)

京都奪回戦→香西元成・三好政勝・波多野丹波衆

みたいな感じか?この後は政勝や柳本某らが抗争を継続して粘り強く三好家に
挑んでいったな。




113: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/25(火) 15:35:22 ID:250M6HAG

政勝より一足さきに、長慶と和睦するけどね=晴元

全体見ると、本当に頼りになる家臣(?言い方が適切かどうかはあるが)がおらず
京兆家の威信を守るための集合離散と思う

この人はまだ、誰かが味方してくれるからいい




114: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/25(火) 19:48:30 ID:22C2t2ue

>政勝より一足さきに、長慶と和睦するけどね=晴元
そう。晴元和睦後も政勝は戦い続けているね。反長慶は長慶が死ぬまで貫き通したな。
まあ親の仇だし、当然か。

まあ二川分流で、もともとの京兆家の家臣がどんどんいなくなってしまったし、
最初は阿波からの出発で、京都の地盤がないということもあるかも。
あと、摂津衆が頼りになる家臣になってくれなかったからね・・・。
伊丹氏は三好長慶との抗争でただ一氏、晴元側についてくれたがそれ以前
では味方だったり敵だったりだし。

やっぱり武将としては香西元成、有力家臣としては三好政長が筆頭かね?
ずいぶん三好長慶にも助けてもらったけど、あれもいろいろ考えての行動
だし、最後に下克上じゃあ家臣とはいえない。




115: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/27(木) 14:44:37 ID:JKIBdTxE

そうだね
政長もそうだけど、香西元成はずっと忠実だよね
元成が永禄三年(1560)に討死したのは、晴元には痛手だったろうね

それが翌年の和睦につながってる、ような気もする




117: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/28(金) 14:56:38 ID:EB2FMAaw

晴元に対応するのは、
当初高国を庇護し対立し、後に和睦し管領代となった定頼で、承禎じゃないと言ってみる
義弟には違いないが・・・




118: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/28(金) 21:24:25 ID:+S7gAE/v

まあそうだな。義賢も確かに援軍を率いたことはあるけど、
やっぱり岳父としての定頼のほうが存在感があるかな。いろいろ
晴元も頼りにしたし。




120: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/01(火) 15:26:50 ID:YhSkqmeY

晴元の奥さんって三条氏の娘だよね?長女が晴元の、次女が武田晴信の妻になった。
三女は晴元の養女として本願寺顕如に嫁いだ。

晴元はいつごろ結婚したんだ?




121: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/01(火) 16:00:35 ID:PepjP9zi

三女は一度、晴元の養女になってから、嫁いでいるみたいだね

晴元夫人との婚儀?
公頼の
長女は天文五年(1536)
三女は弘治三年(1557)だけど・・・




122: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/01(火) 20:24:34 ID:NlDEUrjz

天文五年か・・・。法華一揆がおさまった頃だな。晴元は22、3歳ごろか。
この夫人とは女子しか産まれず、嫡男昭元を産んだのは六角定頼の娘だったっけ。

この夫人達は晩年はどこにいたのかね。三条公頼は大内義隆の招きで山口に
いる時に陶晴賢の反乱にあって死亡しているけど。

流浪の晴元と一緒にいたのだろうか。






123: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/02(水) 13:19:18 ID:CYl+4rJu

よくわからないね、夫人の一生は

三条氏の子・・・娘二人かな
昭元の母・・・六角定頼の娘

問題はこの六角氏で、享禄四年(1531)に婚約、天文六年(1537)とあるが、
(昭元の生年は天文十七年(1548年))
三条氏との関係が、よくわからないなあ

正室二人ってことかな?




124: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/02(水) 21:10:48 ID:+ymv0/At

まあ婚約のときはまだ幼くて、6年後に正式に結婚したってことかな?
三条氏の娘二人はどこぞの大名や、武家に嫁いだと聞いているけど。





125: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/02(水) 21:15:20 ID:fEmFvtnV

各家成員リストでは

娘(赤松某妻)
娘(有馬某妻)

これではわからんね




126: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/03(木) 15:02:23 ID:ZZeon/Lu

晴元も娘って(三条殿の子かどうか知らないけど)、朝倉義景の正室なの?




127: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/03(木) 15:03:19 ID:ZZeon/Lu

晴元の です




128: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/08(火) 10:42:42 ID:1vcIwilJ

まあ最初の妻でしょ。すぐ死んだけど。晴元と誰の間の娘かもわからないし。

関係ないが晴元は足利菊童丸(義輝)の乳母と密通したとして、三好長慶の家臣を
鋸引きの刑に処している。これが晴元が残虐性をもつといわれる根拠になっているが
実際のところはどうだったんだろう?




129: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/08(火) 14:36:49 ID:uFIsn5e+

善住坊(しかも川谷拓三の・・・)を思い出す=鋸引き

一般的とまでは言わないけど、結構あったんじゃないかな、重罪に対しては
義輝の乳母じゃ、相手が悪いよ
忠義(?)とも言えるんじゃ




130: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/12(土) 19:34:40 ID:BqbidtbW

晴元の家臣で最近耳にするのは高畠甚九郎長直。香西元成と同じように
晴元に仕えた人物だけど、江口の戦いで三好政長とともに戦死。

長生きしていれば、京都奪回戦も少しは違っていたかな・・・。




131: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/13(日) 16:24:00 ID:9JURzeVT

>>130
山城郡代であるのはわかったけど、出来れば詳しく教えて




132: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/16(水) 11:55:27 ID:UtvvmkGB

高畠 長直(たかばたけ ながなお、? - 天文18年6月24日(1549年7月18日))は、
戦国時代の細川氏の家臣。通称は甚九郎、後に伊豆守の官途名を与えられる。

元は山城国鳥羽の国人の出であった。同国の国人は山城国一揆が、当時の管領であった
細川政元と関係を持っていたことで知られるように、戦国時代に入ると同氏の影響を
強く受けるようになっていた。高畠氏は桂川流域の高畠荘の有力武士であるとともに
土倉や水運関係の仕事などを営んでいたと言われている。細川高国と細川晴元が管領
の地位を巡って争った際には、長直は兄である与十郎長信とともに晴元側の一員として参戦し、
晴元の勝利後には兄が山城郡代として山城国内の細川領を監督する地位に立ったために、
長直も晴元の近臣として仕えた。

高畠氏はその地域性から公家や寺社勢力とも繋がりを持ち、特に桂川から淀川を経た下流にあたる
石山本願寺と密接な関係をもっていた。特に本願寺門主証如とは親密な関係にあり、証如が庭田重直の娘
との間に男子(後の顕如)が生まれた時には、管領・晴元の代理として祝辞を述べている。
また、三好元長・内藤国貞との戦いにも参戦して戦功を挙げている。

木沢長政の死後、同じ頃に死去した兄・長信の後を受けて山城郡代となり、細川氏綱や
これと結ぶ畠山政国らとの戦いに参加する一方、天文15年には晴元に従って後奈良天皇に拝謁している。
だが、晴元の重臣三好長慶の氏綱方への離反をきっかけに状況は一変する。天文18年江口の戦いにおいて、
晴元方三好政長の軍に参加した長直は三好長慶の攻撃によって敗死してしまうのである。

近年、上杉本洛中洛外図に長直の屋敷が描かれている事が確認されたために、
執筆年代との関係で様々な議論を呼んでいる。

ウキペディアによるとこんな感じ。長直だけじゃなくて兄もつかえていたらしいね。




134: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/16(水) 19:11:10 ID:S0vMpjjY

確かに晴元の家臣として、香西元成とともに活躍してくれたかもしれない。

それはともかく、茨木長隆は京都奪回戦には加わった痕跡がないな。
晴元の家臣というより幕府管領の右筆だったということなのか。




135: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/17(木) 16:40:59 ID:/ztd8l/G

高畠長直・・・調べてもあまり出てこない、オレの調べ方が悪いんでしょ
晴元からみれば、頼りになる数少ない家臣だったんでしょうね

>>134
茨木長隆は
・高国を攻め滅ぼす
・一向一揆と結び、三好元長を滅ぼす
・法華一揆を弾圧
・江口の戦いの後、消息不明
ってことになっていますが、実際の戦闘にはどの程度関与したんですかね?

それから堺幕府(?)の実力者だったわけですが、
義維ー元長と分かれてからは、ずっと晴元の家臣ですよね?





136: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/17(木) 20:11:45 ID:19tP9Nsu

一応茨木城の城主でもあるわけだし、戦闘にまったく関与していないとは
思えないけどよくわからないな。

晴元の家臣でそれなりに序列も高かったとは思う。
でも晴元が没落した後は消息不明。三好に仕えるなんて無理なんだから
晴元のもとで戦えばよかったと思うけど。




137: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/18(金) 17:09:07 ID:NpIkDzPc

ちょっと某年表から茨木長隆を抜粋(天文七年~天文十三年)

・茨木長隆、京都松尾神社領守護役を免除

・茨木長隆、土一揆が東福寺に乱入するのを阻止

・幕府および茨木長隆、京都小川一町中に対し小河川上引接寺勧進所の再興を停止する

・茨木長隆、京都北野経王堂大工職相論を停止

・茨木長隆、京都大徳寺如意庵領洛中巷所農民の地子未進および隠田などを譴責

・幕府および茨木長隆、京都小川一町に誓願寺を通じる釘貫の撤去を命令

・茨木長隆、今村政次に京都東山汁谷口塩合物公事銭を安堵

・茨木長隆、神祇官町巷所地子を押妨す

・茨木長隆、吉田宗忠へ帯座座頭職を安堵す

・・・・・これは事実上の晴元の代行的な地位にはいるね・・・・・・






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