みちのく瓦版

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雑賀衆・根来衆について語ろう その1

ojoihi
1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/29(火) 19:04:00 ID:vqoDtz6a

「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける―。」

鉄砲を使った先進的な戦術で、周囲にその名を轟かせた紀州の傭兵集団を語りましょう。

湯川衆についての話題もどうぞ。






BABYMETAL 「シンコペーション」とかいうV系世代直撃ソング

「見ざる・言わざる・聞かざる」で知られる “三猿”のサルは1匹?3匹? 海外でまさかの大論争に

【衝撃】48歳のオッサンだけど、失恋したから会社を休んだ結果wwwwwwwww

鉄腕ダッシュ初期から見てるヤツっている?

日テレでインタビューを受けた素人がAV出てると特定される。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/29(火) 20:04:16 ID:+sG1XI6J

まずどうして紀州に大名家が育たなかったのか詳らかにして頂きたい




6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/29(火) 20:27:39 ID:AabMrtDX

土豪(小領主、小大名)はたくさんいたよ。
前提として大きな大名家がなかった国はたくさんあります。
自分が考える理由としては
①それぞれの土豪の力(独立心)が強かった。②寺領が強かった。
③本願寺勢力が強かった。④畿内に紀伊を狙う大勢力が無かった。
⑤畠山氏があぼーん!⑥南国なんで人心が御気楽?
といろいろな理由があるのでは?




7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/29(火) 20:45:16 ID:+sG1XI6J

堀内氏善について教えてたも




8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/30(水) 00:45:36 ID:gT0UUybQ

堀内氏善・・・マニアックな大名ですな・・・
豊臣政権下で紀伊国新宮を領有していたとしかわからん・・・
(参照ウィキ)
紀伊の国人だったのか?豊臣秀吉の子飼いだったのか?も
わからん・・・とりあえず関ヶ原で西軍についてあぼーん!しました。




9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/30(水) 00:46:25 ID:SyFeE7qH

傭兵供給地つまりスイスみたいな所なんだよね。
ある物は本願寺に雇われたり織田に雇われたりとにかく大きな傭兵企業みたいなもんかな。
だけど秀吉にとっては邪魔な存在だったらしいの丸ごとアボーンされた。




10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/30(水) 00:53:17 ID:gT0UUybQ

とりあえず戦国時代の紀伊国は雑賀衆、根来衆、
南紀白浜(和歌山県新宮市から三重県尾鷲市)のほうは
熊野大社、九鬼氏(海賊さん)と小勢力の乱立で
紀伊国内での統一は難しかったと思われます。




11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 13:38:21 ID:kjuyS6JO

『陰徳太平記』に雑賀衆は25人で一組となり、
二組50人を一小隊とし、二組が交代で射撃を行なったとある。
そしてその発展例としては作家の工藤章興氏の「二人一組、
25組で一小隊、二人で交互に射撃」という考え方もある。




13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 20:42:39 ID:e1f2u1SN

鈴木さん伊達家でなにしてたの?




16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/20(水) 05:57:54 ID:Sc/fu81s

>>13
鉄砲頭やってましたよ。結局徳川の子孫が水戸の雑賀を継いだんだよね




20: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/07(木) 02:59:36 ID:hMNhS2qZ

ちょっとまとめるつもりだったけど・・・今はこれが限界w

雑賀衆
雑賀衆は雑賀五縅とも呼ばれ、雑賀荘・十ヶ郷・宮(社家)郷・中郷・南(三上)郷
の五郷を以って雑賀衆と呼称され、人口10万~20万、鉄砲三千~五千挺、動員兵数3万余といわれ、
戦国時代最大の惣国一揆とも呼ばれているが、その実態は各郷の有力家の争いが絶えなかった。
雑賀荘・十ヶ郷は一向(浄土真宗)門徒の鈴木氏をはじめ、浄土宗の土橋氏や岡氏、粟国氏、
狐島氏、松田氏、宮本氏、渡辺氏などが寄合を形成して鉄砲衆や海賊衆を束ねていたが、
五縅の中心的な一門である鈴木氏と土橋氏の仲がすこぶる悪く、鈴木孫市は後に土橋家の首領を
殺害したりもしている。
また宮郷の日前宮の神宮を勤める太田党は宮(社家)郷のほかにも中郷・南(三上)郷の国人たちと共闘し、
鈴木氏と何度も戦をしている。この三郷は特に三緘衆とも呼ばれ、農耕を由とした一団のようで、
秀吉の紀州攻めにも最後まで抵抗し、壮絶な水攻めの後、滅亡する。

雑賀衆の著名人には雑賀孫市、土橋氏の支流佐竹伊賀守義昌、
石山合戦で名を馳せた的場源四郎などがいる。


根来寺
新義真言宗の総本山だが、戦国期には廃れる。
坊舎2700余、寺領72万石を数え、1万余の僧兵を要していた一大勢力。
紀伊でももっとも早く鉄砲が伝来した土地で、
種子島から鉄砲を伝えた津田監物算長の弟(或いは兄)明算は杉之坊の院主。
杉之坊は根来寺西口の旗大将で根来衆で最も大きな勢力の子院で、
これに続く勢力は東口の旗大将岩室坊、泉識坊、阿加井坊の三院だった。
岩室坊は紀伊の土豪・田中氏が代々僧院を世襲し、最後の院主・岩室坊清祐は
雑賀衆と共に紀伊にとどまり、最後まで豊臣家に抵抗した後、縁故のある毛利家に仕えて
関ヶ原の合戦にも参戦、後に根来姓を名乗る。
泉識坊は、雑賀衆の土橋氏が院主を配し、当時の院主・土橋泉識坊は
遠く安房や土佐の三好・長祖我部氏の動乱にも出兵し、根来滅亡後に土佐に逃れ、
長祖我部氏の家臣に殺された。阿加井坊は詳細不明w

院外では雑賀衆と戦ったり、院内でも利権にからむ騒乱で僧院どうしがたびたび争うことが
あったが、その場合は鉄砲はほとんど使わず「打ち捨て(首を取らない)」と呼ばれる
暗黙のルールで最低限の秩序を守っていたらしい。

津田監物没後は、子の杉之坊照算率いる杉之坊が実質的な根来寺の首領となり、
フロイス曰く盗賊の王のような振る舞いを行っていたが、1585年、豊臣秀吉に滅ぼされた。
有名な根来衆の豪傑には、久米田合戦で三好実休を討ち取った往来左京、
千石堀城で島左近と一騎打ちで敗れ討ち取られた根来的一坊、
熊取寿明院の院主で中氏藤原家の末裔、熊取大納言坊(小佐次盛重、盛繁とも)
などが有名。

粉河寺
天台宗系の粉河観音宗総本山。
寺領四万余石、雑賀衆の鈴木氏、根来衆との共闘が知られ、多数の僧兵を要していた。




22: 人間七七四年 2007/02/19(月) 23:12:22 ID:Hm5rmZaT

雑賀孫一=鈴木重秀ですか?




23: 人間七七四年 2007/02/20(火) 02:42:45 ID:6IY11Md1

孫市ならそうですが、襲名する名前なので複数いるから他にもいます




24: 人間七七四年 2007/03/09(金) 20:59:36 ID:6KdbsZ29

根来衆の坊さん(といってもごろつきみたいなもんだけど)の名前がすごいよね。
法華頭三位とか阿加井坊とか寿明院坊とかさ。
根来寺を訪れた宣教師が「山主(たぶん杉之坊)は大王のようにふるまい、僧院ではなくまるで騎士団のようだ」
と報告書に書いている。おもしろいよねぇ。騎士団って表現。なんか燃える。




25: 人間七七四年 2007/03/09(金) 21:36:55 ID:yg74BNo9

全てエンの行者に始まる山伏だろう?
それが忍者になり僧兵になり鉄砲集団になった
日本のいちばん解らなくて不思議な所だよね
やっぱ空海なのかや?




26: 人間七七四年 2007/03/10(土) 15:09:40 ID:0vk+zOCM

いろんな武将が根来衆、雑賀衆に手を焼いているが興味深いことに
法力を使う者がいたという記述がある。
エスパーがいたのなら強いはずだよなあ、と妙に納得してしまった。




27: 人間七七四年 2007/03/10(土) 16:22:58 ID:svnqpZLL

法力使いは根来・雑賀のどちらにいたんですか




32: 人間七七四年 2007/04/23(月) 22:20:50 ID:0rb8oBul

>>27
根来衆みたい。
経文を唱えると辺り一面が紫色に染まり兵士がバタバタと倒れた、とか
法印を結び僧兵が10尺の塀を一足飛びに飛び越えた、とか
火炎術で炎を自在に操り兵が進軍できなくなった、とか
いろいろあるよ。




34: 人間七七四年 2007/04/23(月) 23:11:28 ID:z+5fF7CC

>>32
あーー、そういえば根来は僧兵ですね
なるほどです
根来衆も雑賀衆も、漫画化かドラマ化したら絵になって面白いだろうに
いまいちマイナーで、もったいない題材だなあとつくづく思うな




28: 人間七七四年 2007/03/11(日) 12:31:32 ID:gxa9Qvfz

例えば西洋の薔薇十字とかメーソンとか、穿ちすぎ?
記録映画で鬼畜米英滅びよと護摩を焚く真言密教の勤行を観たことがある
麻薬とか毒薬なんかの書も持ち帰ったんだろうなぁ、、空海




31: 人間七七四年 2007/04/23(月) 21:42:00 ID:F8zB0G/x

>>28
薬物のことについてはどうかわからないけど水銀に関する知識は半端じゃなかったらしいよ。
主に建造物の朱塗りや仏像の金めっきに水銀を用いたものだと思うがひょっとしたら
水銀を使った秘薬も作っていたのかも知れないね。




29: 人間七七四年 2007/04/10(火) 17:58:56 ID:Av+lgq82

結局雑賀衆は滅んだの?




30: 人間七七四年 2007/04/11(水) 19:08:03 ID:tR/C3jsM

うん




33: 人間七七四年 2007/04/23(月) 22:31:48 ID:5avaM/th

あんな山深い場所まで攻め込むには、圧倒的兵力で押し通る位の覚悟がいるな
地方大名程度の力だと山間部までは手がだせんよ。
紀伊山地の旧道なんて凄い道なんだから 若葉で行ったら命にかかわる




41: 人間七七四年 2007/06/17(日) 11:34:13 ID:A9R6lM3W

雑賀党て東海畿内中国東部で唯一織田の領地にならなかった勢力だよな。すごい




53: 人間七七四年 2007/08/07(火) 23:24:46 ID:1zNdvhZp

どのくらいの数の鉄砲があったんだろう?




57: 人間七七四年 2007/08/14(火) 11:31:10 ID:PghnHrBf

>>53
天正四年五月織田方の武将大和守護原田直政が三好・根来衆とともに本願寺方の
三津寺砦を攻撃したとき、雑賀衆が織田勢を迎撃した
兵力は一万程度だが、鉄砲は数千挺
織田家中で馬廻から大和守護まで昇進した家中一の出世頭だった原田直政は銃撃
を受け戦死した

この時の戦いで雑賀衆は鉄砲の二段撃ち戦法を使用したといわれる




78: 人間七七四年 2007/09/27(木) 21:11:41 ID:Yl16FgE7

根来衆の子孫で一刀流を修め、
天心独名流を興した根来八九朗重明がいますね。




80: 人間七七四年 2007/09/28(金) 00:20:18 ID:VxN/4idA

外国のWIKIを見ると、根来寺の僧兵たちが
テンプル騎士団などの宗教騎士団に似ていると言われててワロタw
soheiとかwarrior monkというらしい
限られた数の鉄砲を使ってたとか書いてあるが、大量の鉄砲持ってただろw




81: 人間七七四年 2007/09/28(金) 02:36:55 ID:y4u0cZes

中世は宗教の時代だから、坊主たちも世俗の権力を持ち膨大な領地をもち、大名と変わらない
存在で信徒は大名領を超えて民衆や家臣団の中にも存在し、死ねば極楽と立ち向かってくるから
厄介な存在で怖かったんだろう。

比叡山や高野山など天皇も公家も平安から持て余していた集団だし、信長の殲滅戦もキリシタン追放も
徳川の檀家制度も宗教の力の恐ろしさを知りすぎてるからで、世俗的権力の支配下に置こうとした。

映画では孫市は本願寺の坊主に入信させられそうになるが拒んでるが、実際の中世人は熱烈な仏教徒だった
だろうな。中世ヨーロッパと非常に似てると思う。




82: 人間七七四年 2007/09/28(金) 07:42:29 ID:WK/dEm2C

根来って浄土真宗だっけ?
信長に従って本願寺相手に銃ぶっ放してなかった?




83: 人間七七四年 2007/09/28(金) 12:24:40 ID:ymVNjTow

>>82
真言宗だよ
あと雑賀衆でも宮郷、中郷、南郷は真言宗徒が多かったようだ




97: 人間七七四年 2007/12/10(月) 04:29:29 ID:cHlUC0E2

活動範囲の広さは、本拠地が海のそばだった事もその理由である思うが…
熊野水軍とはやはり協力関係にあったのか?




98: 人間七七四年 2007/12/10(月) 15:21:12 ID:dnf9OJOJ

自らも水軍は持ってたね
各地の戦闘に加わってたのも舟を多用して遠征してたんじゃないかな
舟を足代わりみたいに使ってたから、江戸時代も日本中や海外にと活動範囲はものすごく広いね




101: 人間七七四年 2007/12/12(水) 08:29:53 ID:fYAnwEry

>>98
信長と和したのは、四国攻めてで協力する為らしいね。




102: 人間七七四年 2008/01/11(金) 08:43:14 ID:BVfJZro/

>>101
世渡り上手いんだか下手なんだか分からんね。




110: 人間七七四年 2008/01/25(金) 12:27:44 ID:PyUC7RWn

>>101
雑賀衆の動向
・元亀元年
信長vs三好三人衆・本願寺
雑賀衆、“信長方”として出陣(信長の養女と婚姻している紀州守護の畠山昭高
が健在だったため)

・畠山昭高暗殺後
雑賀衆の分裂
雑賀庄(土橋氏)・十ケ郷(鈴木氏)→本願寺方
宮郷・中郷・南郷〔+根来衆〕→信長方
・天正八年、本願寺降伏後
土橋氏と鈴木孫一の対立
土橋氏→教如派(対信長強硬派)
鈴木孫一→顕如派(対信長融和派)
信長方(織田信張)の鈴木孫一への加勢→鈴木孫一の勝利→親信長派の鈴木孫一
の雑賀衆統一




99: 人間七七四年 2007/12/12(水) 06:12:36 ID:VLdP5bQ5

雑賀の水軍の場合は瀬戸内海の東側から大阪湾、紀伊水道くらいの
範囲じゃないの?




100: 人間七七四年 2007/12/12(水) 06:36:34 ID:fadWB+zX

>>99
>瀬戸内海の東側から大阪湾、紀伊水道くらいの
それ以東は伊勢水軍のテリトリーになりそうだね




112: 人間七七四年 2008/02/01(金) 20:28:54 ID:t0y5hfOl

そもそも雑賀衆自体完全に一心同体なものではなく、各郷の一揆衆のゆるい連合体でしかないからね

で宗教まわりだが
確か雑賀庄や十ヶ郷は一向衆徒がそこそこ多く、浄土宗も多くの信徒がいた
で、残りの郷では根来寺の信徒が多かったはず
だから、雑賀庄・十ヶ郷では本願寺を支援する動きが出たのは当然だし、
それに対して、残りの郷が異なる行動をとったことも至極当然なことではある

ゲームの影響かは知らんが、そこそこ有名だが実際がどうであったかを知ってる人は少ないね




113: 人間七七四年 2008/02/06(水) 02:58:17 ID:1OaN0PJQ

>>112
秀吉に攻められて根来衆共々壊滅。
その後は帰農したり、各地に離散しちゃったからねぇ。




114: 人間七七四年 2008/02/07(木) 02:42:47 ID:z1j+VIiu

>>112
詳しそうなので質問してみる
1当時の紀伊全体の動員力はどれくらいだったの?
2その緩い連合を成していた各一揆衆は、いわゆる国人クラスの領主と思って良い?

戦国時代の紀伊=兼業傭兵家でイパーイ、というイメージがあるのだが…
その割には「庄」や「郷」という如何にも小規模そうな地名にギャップ感じるんだよ




115: 人間七七四年 2008/02/07(木) 07:40:22 ID:zYD0gPrI

>>114
1 .紀伊は太閤検地で確か243550石だったはずだから、
  そこから逆算すれば、5~7000人ぐらいになりますかねぇ
  (太閤検地の値の信憑性についてはここでは論じない方向で)

2 主要な人物の中には国人レベルの人もいたでしょうが、
  大半は土豪クラスと考えても差し支えないかも
  それこそ各惣の有力者のような存在なので

後、紀伊でも傭兵業が盛んだったのは主に和歌山付近ぐらいでしょうねぇ
(それこそ雑賀衆が住していた地域なんてそれぐらいの広さでしかない)
南に向かうと、湯川氏などが畠山氏の家臣として長く仕えていて、
熊野に行くと今度は熊野の神党ともいえる勢力が根を伸ばしてましたから




116: 人間七七四年 2008/02/11(月) 23:13:47 ID:yLOvg7fI

>>115
詳しくサンクス
熊野と畠山の存在をすっかり忘れていましたw

さらに質問してみる
傭兵業じゃ、どの程度の規模で戦力を出向させてたんでしょ?
(依頼次第で、一概には言えないと思いますが




117: 人間七七四年 2008/02/12(火) 08:35:33 ID:DUC5fsUN

>>116
一応、秀吉の紀州攻めの時抵抗した太田党・根来党が約2万とか言いますが、
これはかなりの誇張と考えられますし、実際は非戦闘員(女性や子供、老人)も含んでのことでしょうから、
実際の戦闘員はもっと少なくて数千人程度になるのではと推察されます

ということは太田党の兵力はあまり大きくはなかったと推察され、
それに雑賀党もあわせたとして、石高を考慮しないとしても常時はせいぜいMAX5~6千が限界ですかねぇ

正確なところはもう少し調べてみないとなんともですし、
雑賀衆は家ではなかったために、資料が乏しいんで、
今となっては当時の雑賀衆の動きというのは闇に埋もれた部分が多いですね




119: 人間七七四年 2008/02/29(金) 00:11:49 ID:xa8CnaBO

最新の武器に精通した傭兵の専門家集団って異色でかっこいいな




120: 人間七七四年 2008/02/29(金) 00:18:50 ID:05tzht4M

スイスの傭兵みたいに食えないから生まれた出稼ぎなんだろうな。




121: 人間七七四年 2008/02/29(金) 01:51:26 ID:Il7YETaB

とかく雑賀衆は傭兵だけで食ってたと思われがちだけど、交易業をはじめ漁業や海運業、
武具などの製造業等の多角経営の一翼ととらまえた方がいいかも知れないみたい。
もちろん農業だけでは食べていけないからだけど(特に雑賀荘や十ヶ郷)。




122: 人間七七四年 2008/03/01(土) 01:12:52 ID:WJhX5/ur

農業は盛んだったんじゃないのか
紀ノ川流域の肥沃な土地で米もたくさん取れたと読んだ覚えがある

多角経営でいろんなことやっててお金持ちだったようだね
戦国期から明治まで一族中が遊んで暮らせるだけの財力があったとか




123: 人間七七四年 2008/03/01(土) 03:11:56 ID:GVgJNiL4

>>122
雑賀衆の分布する範囲は広くないとはいえ、それでも地域差がありまして
雑賀衆で主となったのは
雑賀荘・十ヶ郷・宮郷・中郷・南郷
の5地域であると言われている

で、このうち雑賀荘と十ヶ郷は海沿いであり、
あまり農業は盛んではなかったかわりに、海運・交易・はたまた海賊業が盛んであったと言われ、
逆に残り3郷は、紀ノ川下流部の肥沃な土地を使った農業が盛んだったと言われている

この違いが宗教伝播と繋がりの差となり、雑賀衆内の石山本願寺に対する対応の違いを生んだ要因でもあるとも言えます




124: 人間七七四年 2008/03/01(土) 03:16:39 ID:siuXg4sC

>>122
農業が盛んではないとは言ってないよ。
ただし肥沃な土地だったのは宮郷・中郷・南郷。
雑賀荘と十ヶ郷は砂混じりの痩せ地で海水がさしたり水害も多いので
米作には向いていないし作物の質も悪いと江戸後期の「紀伊続風土記」等の
史料にもある。これは年貢取立て側の紀州藩の編纂だから信憑性も高い。
戦国期に宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史」で雑賀地域のことを
「大いなる共和国的存在」と言っているけど、これは当時の異邦人が中世的な
自治体制をそのまま表現したととらえるべきだと思うよ。
現在、一般的に「雑賀衆」といわれているのは上記5つの荘郷を自治組織と
捉えた場合であり、それも決して一枚岩ではなかったのは周知の通り。
農耕不適な雑賀荘は宮郷や中郷と何度も武力闘争を起こしている。
だから戦闘組織としての「雑賀衆」は雑賀荘と十ヶ郷を中心にした人々と
捉えるべきだと思うよ。事実「本願寺文書」等にもそう記されている。
もちろん彼らも農耕に全く縁がなかった訳でもなく、金銭で他人の知行地を
買った例も多く伝えられているけどね。




125: 人間七七四年 2008/03/01(土) 14:52:24 ID:els7VsGt

狭い地域の中でも肥沃な土地と痩せた土地があったわけか




126: 人間七七四年 2008/03/01(土) 16:50:38 ID:K9zlCA3G

>>125
低地と高地、灌漑の良悪とか条件もあるからね。




127: 人間七七四年 2008/03/01(土) 19:28:05 ID:siuXg4sC

>>125
宣教師ルイス・フロイスがイエズス会への報告書に雑賀衆の事を
「ヨーロッパにおいては富裕な農夫と称する如き者」と記しているのを根拠に
雑賀地域の農業生産力が高く、住民が豊かな生活をしていたとする人も多い。
でも前述のように雑賀とは農耕に適した宮郷など3つの郷と不適な2つの荘郷から
成り立っていた。
フロイスの報告から200年以上のちの江戸後期の史料でもそう指摘されている。
農業や灌漑技術もかなり改良され生産力も向上しているはずの江戸期になっても
未だそんな状況だったのだから、戦国期の雑賀の状況は推して知るべきかと。
となると海沿いの雑賀荘・十ヶ郷の主な生業が交易にあったとしても頷けるよね。
国内のみならず、中国本土へも渡っていたと中国側の史料にも語られている。
いわゆる「倭寇」だけど、その本質は私貿易で一般に言われる海賊行為ではない。
必ずしも手荒な行動に出なくても充分な利益は得られたみたいだよ。




128: 人間七七四年 2008/03/02(日) 20:53:36 ID:HFTOukXG

財力がなかったらバカ高い鉄砲を何万も買えないわな




129: 人間七七四年 2008/03/02(日) 22:00:39 ID:YwvaBbTA

紀州に鉄砲が伝来したのは根来の津田監物が天正13年(1544)に種子島から持ち帰ったのが
最初と伝えられている。という事は根来を経由して雑賀に入ってきたという事になるよね。
その数年後には幼少時から鉄砲の撃ち習いをしていたようだから普及は早かったようだよ。
それほどの数を短期間に揃えたという事にもなるよね。
他国から買い入れたとする史料もあるけど、確証がある訳でもないようだよ。
石山合戦の前後では堺や根来も信長方だった事が多いし、鉄砲の入手にも苦労したはず。
でも、そういった史料は今のところ出てきていない。
古くから雑賀では武具製造もしていたようで鍛冶技術ももっていたらしいから、
鉄砲生産も手がけていたというのが最近の見方のようだよ。




130: 人間七七四年 2008/03/03(月) 18:21:16 ID:HP1Fga1/

>>129
火薬なんかはどうやって調達していたのかな?
やっぱり交易?




131: 人間七七四年 2008/03/04(火) 16:42:27 ID:NarQJqdZ

>>130
おっしゃる通り、火薬がなければ鉄砲もただの鉄棒だよね。
火薬の製法自体は鉄砲と同時に津田監物によって根来経由で雑賀にも伝わったようだ。
ただ、火薬の原料の硝石は日本では産出されないのが問題だった。
必然的に輸入に頼るしかない。主な輸入港は堺だけど、信長に押さえられて以降
本願寺側は大阪の難波からも陸揚げしていたようだよ。
当時の戦国大名たちがキリスト教布教に寛容だったのは鉄砲と共に火薬の入手にも
熱心だったからだとも考えられている。
前述のように雑賀は交易業が盛んで、当時は貿易拠点の一つだった種子島とも
頻繁に行き来があった。また独自のルートも持っていたのかも知れないね。
しかし、それと同時に日本国内でも硝石類は製造されていたんだよ。
硝石は大気や土壌に含まれるアンモニアが酸化されて硝酸になる作用からできる。
これを利用して鳥や魚の死骸に草や土を堆積させて作っていたようなんだ。
本願寺は一向宗勢力の強い加賀や越中に技術者を派遣して製法の指導もしている。
合掌造り民家で有名な富山県の五箇山地方などでは蚕の糞などを原料とした「塩硝」作りが
明治中期まで行なわれていたようだよ。




132: 人間七七四年 2008/03/05(水) 01:05:12 ID:ompxNRJc

>>131
そうらしいね。
でも、硝石の採取量はごく少量だったみたいね。




133: 人間七七四年 2008/03/05(水) 02:05:29 ID:bShuCa07

>>132
詳しい生産量は不明だけど、もちろん雑賀衆の活躍した時代にあっては
ほぼ輸入品だったという説が多いね。
ただ中には信長が堺などを通じてポルトガル領マカオからの貿易を独占したのは
本願寺側の硝石保有量に脅威を感じたからだという説もあるね。
前述のように本願寺側は加賀・越中の他に美濃や飛騨などでも塩硝作りをさせていた
形跡もある。ちなみに越中五箇山の塩硝の生産量は江戸後期で年間5~6トンらしいよ。
もっともこの頃には徳川幕府の統制もあって国内での消費量もしれていたんだろうけど。
戦国期にはあちこちでドンパチやっていたのだから火薬の消費量も多かっただろうし、
硝石の国内生産も始まったばかりで当然ながら質も良くなかっただろうね。
となると、全てではないにしろ必然的に輸入に頼らざるをえなかったんだろうね。
ここでも雑賀衆の交易とそれによって蓄えた財が役に立ったんだね。




134: 人間七七四年 2008/03/07(金) 01:21:52 ID:/xvBgTYo

>>133
どこかの本で石山戦も後半の頃になると織田軍と本願寺軍の
火薬の質の差が出始めるようになった、と書いてあったね。
何の本だったろ?




135: 人間七七四年 2008/03/08(土) 02:47:36 ID:F5rqpbzG

>>134
その書名はわからないよ、申し訳ない。
火薬の質という点では、信長側の包囲網によって輸入量も減っていっただろうから
戦いが長引くにつれ落ちていったのだろうね。
ただ量的には十二分とまではいかなくても、少なくとも不足し過ぎるということは
なかったのじゃないかな。
本願寺降伏後の戦いでも、雑賀衆は何度か鉄砲で信長側を撃退しているし。
もちろん備蓄していた量も半端なものではなかったのかも知れないよね。




136: 人間七七四年 2008/03/08(土) 04:25:54 ID:1l6EeZqh

織田軍というのは多正面作戦をやってますよね。
複数の戦線に物資を分散させなければならない織田軍に対して、
限定的な戦線に物資を集中できる雑賀衆。
物量差がそれほど生じにくい状況があったのかも知れないですね。
おまけに地の利は雑賀衆にあり、尚且つ、雑賀衆は独自の水軍を持っている。
この点も戦線を維持できた大きな要因でしょう。

最終的には合従連衡の惣村連合という基盤の弱さがネックになりましたが。




137: 人間七七四年 2008/03/08(土) 04:32:44 ID:F5rqpbzG

おっしゃる通りですよね。
哀しいかな、一地域の連合であり、前述のように決して一枚岩ではなかった。
最後まで抵抗をしたのも、いわゆる「雑賀孫一」党ではなく対立関係にあった
太田党ですしね。




138: 人間七七四年 2008/03/08(土) 04:43:58 ID:1l6EeZqh

>>137
このあたりは同様の惣村連合である伊賀衆なども同じ末路を辿っていますね。
領主への抵抗勢力としては団結できても、利害関係が崩れると今度は惣村同士が
潰し合いを演じてしまう。
結果、離散して帰農するか、惣村を離れるか。
紀州に雑賀衆の資料、史跡が少ないのもそういうところに理由があるのでしょうが。




140: 人間七七四年 2008/03/08(土) 05:47:03 ID:F5rqpbzG

>>138
まさしく小土豪たちの悲哀が感じられますね。
壊滅後、西軍として関ヶ原で戦った者も多いですし、その後は根来衆と共に大阪の陣に
入城した者もかなりいたようですね。また残った者も大阪城に呼応して一揆を企てた者も
見受けられますよね。
ここにも共通の「外敵」に対する彼らの団結心が垣間見られるような気がします。




139: 人間七七四年 2008/03/08(土) 05:31:43 ID:Z0q6WHOe

>おまけに地の利は雑賀衆にあり、尚且つ、雑賀衆は独自の水軍を持っている。
この点も戦線を維持できた大きな要因でしょう。


信長が強力なな鉄板戦艦を投入してから
雑賀衆水軍のほうでは士気は落ちたんだろうか?




141: 人間七七四年 2008/03/08(土) 06:24:45 ID:F5rqpbzG

>>139
史料が少ないようなので実態はあまりわかっていないようです。
交易や海運、漁業に関わってはいたのですが、常備組織としての水軍ではないようですね。
本願寺合戦の際には、外洋航行用の「大船」や「警固船」をはじめ200艘ほどの大規模な
水軍を運用していたようで、もちろん鉄砲や焙烙などの火器も積載していたようです。
信長方の「鉄甲船」については、「信長公記」その他の記事にありますが、近年ではその
存在自体が疑問視されているようですね。
しかし第2次木津川河口の戦で数に勝る毛利水軍が惨敗しているのは既成の事実です。
これにより毛利水軍は本願寺への補給をほぼ諦めていますよね。
雑賀水軍は第1次木津川河口の戦には参戦したようで、2年後の第2次には「鉄甲船」に
敗れて堺への入港を許してしまい、結果として毛利水軍もそれに敗れたとあります。
ただ、毛利水軍が敗れてから2年間も本願寺が持ち堪えたのは、雑賀水軍による補給も
大きな要素ではないでしょうか。
そう考えると、それほど士気が落ちたとも思いにくいのですが如何でしょうか。




142: 人間七七四年 2008/03/08(土) 07:04:08 ID:v25lDQeu

鉄甲船もその後の消息は不明だね。
大坂本願寺の海上封鎖戦が終わった後は無用の長物と化したのかな。

江戸幕府も草創期に江戸湾に大型軍船を浮かべていたが、メンテナンスコストが
嵩んで解体の憂き目に。
外板の腐食も早かっただろうし、切り回しが悪くて使いづらかったのかも。




144: 人間七七四年 2008/03/10(月) 02:31:46 ID:gOMkXPdQ

>>142
信長方の「鉄甲船」は木津川河口の戦後は、河口に係留され威容を示していたが
やがて朽ち果てたともいわれていますね。
そもそもこの「鉄甲船」、鉄を貼り付けていたとする史料は全く発見されていないようです。
唯一「鉄」の記述が出てくる「多聞院日記」も「鉄砲が通らぬ鉄の船」とするだけです。




146: 人間七七四年 2008/03/10(月) 22:56:53 ID:/Wr+59Kh

>>144
織田は海上兵力を用いて遠征するという作戦があまり無かったからね。
長曾我部を攻めようと思ったら、本能寺の変 ⇒ 織田家衰退 だもの。
その後の混乱の中で鉄甲船も失われたんだろう。

しかしながら、九鬼の鉄甲船?(大型の安宅船)「鬼宿」は秀吉に徴用されて朝鮮の役に
参加しているし、徳川家も「安宅丸」を建造しているので、この種の軍船の戦力的価値が
低下したというわけでもなかったみたいね。
「安宅丸」の外板は鉄板でなく銅板だったようだけど。




154: 人間七七四年 2008/03/25(火) 17:58:12 ID:gWh77d1t

湯川直春起請文について教えてください




155: 人間七七四年 2008/03/31(月) 13:26:34 ID:usFVN9UX

あれは湯川のが立場は上なのかな




156: 人間七七四年 2008/04/02(水) 05:39:35 ID:7Fz6jVxV

>>154>>155
湯川氏は室町期からの畠山氏の重臣で、紀伊中部において大きな勢力を有していたことが知られている
(おそらく当時の紀伊では最大の在地勢力であり、その軍事力は畠山家中でも有数のものだったようである)
そのため、近隣の国人衆よりは上の位置にいることが多かったと思われる

で、この湯川直春起請文が書かれた時期だが、
永禄5年(1562年)7月と言われており、これは先代湯川直光が河内で戦死した少し後
つまり、この起請文は湯川氏の代替わりにおいて、近隣の国人衆が湯川氏とのこれまでの関係を再確認するために作られたと予想される
そう考えるなら、当時の紀伊の一部地域では湯川氏を中心として、ゆるい国人の連合体が構築されていたのではないかと思われる

まあ、起請文を直接現代語訳したわけじゃないんで外してるだろうけど




158: 人間七七四年 2008/04/04(金) 18:40:26 ID:XN95Pa1S

>>156
なるほどなるほど
あれは国人領主さんたちへのご挨拶状みたいなものか




157: 人間七七四年 2008/04/02(水) 21:33:13 ID:6fdW78Xl

確かにそのようですね。
雑賀衆との関係も連合であったり時には敵対したりと、その時々で変化していますよね。
156さんのおっしゃられるように、あくまでも「ゆるい」連合体であった事が察せられます。




160: 人間七七四年 2008/04/06(日) 03:00:19 ID:dmK8cQn2

信長の野望の1582年のシナリオだと
機内は信長に制圧されてるのに、こいつだけ大名家として生き残ってて
雑賀すげえ!って思ってたな




162: 人間七七四年 2008/04/06(日) 11:47:58 ID:iZoGpDVZ

>>160
夢を壊すのはなんだが
本能寺の変直前の鈴木孫一は親信長派です
天正十年初めに信長から織田信張の援軍を得た鈴木孫一は反信長派の土橋兄弟を
破り放逐して雑賀衆を統一
鈴木孫一ら雑賀衆は織田信孝の四国渡海に水軍と陸兵千で支援する予定だった

一方、逃れた反信長派の土橋一族の土橋平尉らは長宗我部元親の軍に加わり、勝
端城を攻めている

本能寺の変で動揺した孫一は翌六月三日に岸和田城に逃れ、織田信張の庇護下に
入った




164: 人間七七四年 2008/04/09(水) 18:14:42 ID:XaF+1bL5

鉄砲伝来前は根来は僧兵集団で雑賀は水軍?




165: 人間七七四年 2008/04/10(木) 01:39:00 ID:itoOPhed

>>164
以前にも記しましたが、水軍といっても単なる「海賊衆」ではなく、
「さつまあきない」といって土佐沖を抜けて薩摩と往来していた貿易商人です。
当時の薩摩は対明貿易の中心地の一つで、中間交易だけでなく、時として
明国へ直接渡って交易していた事も確認されています。
これに従事していたのは所謂「雑賀衆」の五荘郷のうちでも、海側に位置した
雑賀庄の湊・雑賀・岡と十ヶ郷の松江・加太あたりです。彼らはもちろん漁業も
生業としていたようです。
対して、内陸部の三組(宮郷・中郷・南郷)は比較的に土地が肥えていたので
農業が主な生業だったようですね。
これらについても先述していますので、ご参照下さいね。




166: 人間七七四年 2008/04/10(木) 09:09:02 ID:gavwrITD

他でも言ったが水軍と言う名称は江戸中期以降に作られた物
この時代船を使う兵士は全て海賊と呼ぶ
海賊全員が略奪を生業としていたわけじゃない




167: 165 2008/04/11(金) 00:17:39 ID:+UpeDn00

>>166
ご指摘ありがとうございます。
それは承知の上での発言ですよ。
ただ、昨今は水軍という呼称が定着している感があったので
一般の方々にも判り易いように敢えて使用しました。




172: 人間七七四年 2008/05/05(月) 10:01:03 ID:yebmMbTG

あ、あと
雑賀衆が傭兵家業みたいな事や
貿易に携わっていて海賊(水軍)を保有していたのは
このスレでわかったんですが、根来衆の方はどうだったんでしょうか?
そういう傭兵業みたいなことで各地へ兵を派遣したり
海運関係の利益はあったのでしょうか?




173: 人間七七四年 2008/05/05(月) 10:11:15 ID:yebmMbTG

まとめて質問できずに申し訳ないです。あと1つ。
本能寺の変直後の

根来衆・雑賀衆・鷺森の本願寺の関係はどのような感じだったのでしょうか?
雑賀も根来も、それぞれ諸勢力の集合体なので全体として動きはまとまっていなかったとは思うのですが
おおよそ、どのような関係であったのか?というのを知りたいです。

雑賀・本願寺-根来 敵対
雑賀-本願寺 友好

こんな感じですか?

あと、これらの勢力は本能寺後、光秀・秀吉らの戦いにどのように関わったのでしょうか?
すぐ傍には信孝・丹羽の軍勢や大和の筒井氏などがいたと思うのですが。
積極的にどこかの勢力に属したのでしょうか?それとも静観?




174: 人間七七四年 2008/05/05(月) 15:58:07 ID:fMPBhASQ

根来衆は今の岩出・泉南・阪南・粉河・泉佐野方面に多くの末寺を保有していました。
ほとんどの寺が城門、石垣に匹敵する堅固な砦の様式で築かれ要衝として機能していましたので、
味方する勢力に前線基地として寺の使用を許可し、
場合によっては僧兵もレンタルのような形で傭兵業を営んでいました。
敷地利用に付随する形での傭兵業なので派遣地域も自ずと自勢力内に限られていました。

海運収益は紀ノ川水域の内水系、現在の岬町付近を拠点とする外水系両方で莫大な利益をあげていました。




175: 人間七七四年 2008/05/06(火) 00:48:24 ID:nei18VZl

>>171-173
171のご質問に関しては根来衆という形態も手伝って諸説あり断定はできないようですね。
また172に関しては174さんが的確にご回答されていらっしゃいますので割愛いたします。

ご存知のように根来衆とは僧徒らの集団ですが、根来寺僧徒には学問・儀式を司る学侶と
寺の管理や防衛に当る行人(ぎょうにん)とがあり、僧兵となったのは主に行人でした。
彼らは○○坊と呼称される多くの子院に属していましたが、これら子院のほとんどが近隣の
土豪とかなり密接な関係を持っていたようです。例えば特定の家から子院の門主を送り込む
事も多く、泉職坊の門主などは代々が雑賀の土橋家から出ています。また古書類を見ると
根来衆が雑賀衆に加勢したとか、鈴木孫一の従兄弟が根来衆の有力者だったという記事も
見えます。
このように人的には深い関係があっても、新義真言宗の根来衆ですから一向一揆など起こす
訳もありません。石山合戦では全てとはいえないまでも信長方として雑賀衆と戦っていますよね。
石山合戦中に雑賀衆は分裂、信長の雑賀攻めにより鈴木孫一は降伏。本願寺は門徒を中心に
雑賀一向衆を再編するも、信長と講和、鷺森に移りますが、一向一揆を指導する事はなかった
ようですね。
この頃には根来衆は信長の家臣化していたようです。降伏した鈴木孫一は信長に急速に接近
していったようで、そういう観点からすれば根来衆とは同じ陣営に属してはいますよね。
ただ、おっしゃる通り「集合体」ですので、複雑な関係ではあったようです。
領地問題から、あるいは反信長の土佐長宗我部氏と通じた為か鈴木孫一は同じ雑賀衆の
土橋氏を暗殺していますが、この時には本願寺顕如が必死に説得しているようです。また、
土橋氏の縁者である根来寺泉識坊も討ち取っています。このあたりが雑賀衆・根来衆ともに
複雑な内部事情ですよね。
反信長派を一掃、雑賀衆の支配者として四国攻めの兵船を調達。そこに本能寺の変です。
鈴木孫一は雑賀から脱してしまい、土橋氏が再び実権を握ります。
この頃には雑賀衆は根来衆とも結んで和泉国へも積極的に進出していたようで、これが
秀吉との対立を生み、紀州攻めの要因ともなっていますよね。
私の知る限りでは、この間、信長の「弔い合戦」の為に組織的に動いた形跡も特にないように
見受けられます。地域土豪集団の常として、共通の外敵の出現には連合して戦いつつも内部
においては闘争も繰り返す。多分に漏れず、彼らとてそのような感が否めません。

長々と述べた割には内容が薄くて申し訳ありません。
また、本能寺の変前後の彼らの動きについて更にご存知の方、ご教授いただけましたら
幸いです。




176: 人間七七四年 2008/05/06(火) 09:20:54 ID:qDgfbdv0

>>174-175
ありがとうございます。大変参考になりました。
とりあえず根来の傭兵活動、経済活動、
及び、信長死去直前までの両陣営の動きはだいたいわかりました。
>>175さんの私見を参考にすると、両者とも
特に本能寺後に、積極的に明智・羽柴に属して合戦を行ったということはなく
内部抗争・様子見・空白地帯への侵攻、そんな感じだったんですかね?




177: 人間七七四年 2008/05/06(火) 11:30:56 ID:qDgfbdv0

すみません、追加で。
wikiなどを見ると
>本能寺の変によって信長が横死すると孫一は羽柴秀吉のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握る。
とあるのですが
一方で、鈴木重意(佐太夫)が、1585年の紀州侵攻で抵抗して騙まし討ちされた、ともあります。
雑賀衆というか「鈴木氏」についての質問なのですが
彼らは本能寺以後、どういう行動を取っていたのでしょうか?
一度は秀吉(信孝)の領内に庇護を求めて逃げ込んでおいて
後に秀吉に抵抗して討伐されている。
いまいち、秀吉に対してどういう対応を取っていたのか
どこを拠点にしていたのかがわかりません。
(拠点を失い秀吉支領内にいたのか?雑賀に確固たる拠点を置いていたのか?)

また、鈴木氏が一度雑賀で勢力を失って
「土橋派」が勢力を盛り返していたようですが
この「土橋派」には、どのような人物が入っていたのでしょうか?
鈴木氏衰退後?の雑賀衆を率いた人物にはどのような人がいたのでしょうか?
太田党とかの事なんですかね?




178: 人間七七四年 2008/05/06(火) 12:11:53 ID:wRyOeG3Y

別回答者登場

>>177
そこらへんはいかんせん雑賀衆等の記録がなかったり、うさんくさかったりで
正確なところがはっきりしてないところが多いために断言が難しいところではあります

まず本能寺後ですが、分裂状態ではあるものの、基本的に主流であったのは太田党や雑賀郷土橋氏であり、
土橋家では明智光秀との書状のやりとりがあったことから比較的光秀よりの立ち位置を取っており、
また、長宗我部家と共同歩調をとり、讃岐への出兵の記録もあるようです
さらに秀吉は根来衆らが和泉や紀伊に持つ権益を認めなかったこともあり、
根来衆や雑賀衆は反秀吉的性質が強かったと予想されます
ただ、秀吉の視線が基本的に東を向いていたこともあり、比較的緊張した不戦状態に近かったかと思います

しかし、小牧・長久手の前後になると家康の誘いもあり、雑賀・根来衆は明確に家康方につき、
秀吉勢を後方から牽制、大阪周辺まで兵を進めたと言われています
で、その小牧・長久手が予想以上に早く終結すると、秀吉は後方を攪乱できる位置にある紀州の重要性から
紀州討伐へと動くわけです




179: 人間七七四年 2008/05/06(火) 12:25:09 ID:wRyOeG3Y

続き

で、鈴木家ですが、まず著名な孫市(一)、これが問題になります
というのは孫市というのは雑賀鈴木家の人物の多くが名乗った名乗りであり、
そもそも孫市が全て同一人物であるという考え方をまず捨てる必要があります

で、本能寺後の鈴木家ですが、基本的に紀伊に残ったのが大勢かと思われます
というのも、紀州討伐の際に雑賀城にこもった雑賀衆の中に鈴木姓が複数見られるからです
(ちなみにこの雑賀城は鈴木左兵ヱ、鈴木孫六(重意の子と言われている)らが本願寺顕如からの書状を受け開城した)
なので鈴木家全体が親秀吉派であったということが一つの間違いであるのかもしれません




180: 人間七七四年 2008/05/06(火) 12:27:51 ID:wRyOeG3Y

さらに続き

で、お次は土橋氏ですが、土橋氏は雑賀荘の中核をなす家の一つであると同時に、
根来寺との関わりが非常に深く、結果として土橋家は
比較的一向衆徒の多かった雑賀荘・十ヶ郷と根来寺及びそれに近い残りの雑賀衆を結びつける橋渡し的存在であったようです
その性質故か、石山合戦の際も本願寺支援に積極的であった鈴木家とは行動を別にしていたようです
逆に雑賀討伐、石山退去後になると鈴木家が親信長派に近く、土橋家は反信長派となり対立、
雑賀勢によって土橋若太夫が殺害されています

その後本能寺の変が起こり鈴木家の勢力が後退すると、土橋家は太田党や根来衆と行動をともにするようになります
おそらくこのころの土橋家は土橋若太夫の子土橋平次郎(守重?)が中心であったと予想されます




183: 人間七七四年 2008/05/06(火) 21:34:04 ID:wRyOeG3Y

というのは>>179にも書いたとおり、鈴木孫一が一人の人物である可能性は、
その名が長い期間にわたって史料に出てくること、
さらに石山における戦死者の名前にも同様の名乗りが表れることからも低いことが想定できます

ただ、本能寺後の鈴木家の人物を見ると、鈴木重秀が秀吉に重用されたことがうかがえ、
彼が本能寺以降秀吉に仕えたという孫一である可能性が高いのではないかと思われます
一方、その他の鈴木一族がその頃に秀吉に出仕した様子はまず見あたらないことから、
彼以外の鈴木氏のほとんどは以前同様、雑賀荘に残ったとみるのが自然ではないかなと思います




181: 人間七七四年 2008/05/06(火) 12:42:29 ID:wRyOeG3Y

これで最後

最後に本能寺後の雑賀衆ですが、
基本的にその中枢を占めたのは太田党と言われる宮郷の太田城主太田氏を中心とする親根来勢力であったようです
(元々、宮・中・南郷の三郷は根来寺との繋がりが強い)
その中心にいたのが太田左近という人物で紀州討伐では太田城で最後まで抵抗、最終的には切腹し、没落しています

さて、紀州討伐後の雑賀勢力ですが、
鈴木家は秀吉に仕えていた孫市だけでなく、雑賀城を早々に開城した鈴木孫六は所領を得て
秀吉の統治下に納まり、関ヶ原後は鈴木重秀(朝)の流れが水戸徳川家に仕えるなど後世にその名を継いでいったことがわかります
一方、土橋家は紀州討伐で強く抵抗した結果、土橋平次郎は太田城で討ち死に、
その他の一族のほとんども戦死もしくは帰農と武士としては後世に残らなかったようです
その他でも紀州討伐で強く抵抗した勢力はほとんどが没落し、帰農なり国外へ移るなどがあったものと予想されます
というのは日前国懸両神宮の神職を勤める紀氏すら一時は零落というほどの処置が行われたことから
基本的に中世紀伊北部の勢力・統治構造を完全に破壊するほどの後処理が行われたと予想されるためです




184: 人間七七四年 2008/05/06(火) 22:19:05 ID:qDgfbdv0

>>183
なるほど。ありがとうございます。
可能性としては孫一(おそらく重秀)が秀吉に仕えていて
残りの鈴木一族は雑賀に残った、だが
実権を握っていたのは、太田・土橋などの親根来の勢力で
雑賀・根来一体となって秀吉に抗していた、そんな感じでしょうか?

じゃあ、もしかしたら佐太夫と重秀が敵味方に別れて戦っていた、
なんて可能性もあるっちゃーあるわけですね・・・

結局のところ、鈴木氏は「孫一」で、その活躍をまとめられちゃって
個人的な動きや活躍みたいなのはハッキリしない人が多いんですかね?




185: 人間七七四年 2008/05/06(火) 23:03:05 ID:wRyOeG3Y

>>184
基本的にその通りです

ただし、本能寺以降の雑賀衆が基本的に反秀吉であったとはいえ
やはり一揆衆の性格ゆえ、完全に一枚岩というわけでもなく
紀州討伐の際に根来寺が陥落し、秀吉勢が雑賀荘に入る頃には一部地域では既に焼き討ちが行われていたり、
雑賀城が開城するや、一部の雑賀衆の城が同様に開城してしまうなど、
やはり内部分裂・崩壊が生じた様子がうかがえます




186: 人間七七四年 2008/05/06(火) 23:50:19 ID:qDgfbdv0

>>185
その辺はいろいろ回って調べたので把握しました。
秀吉の紀州侵攻の時は
根来衆の方が徹底抗戦派が多く
雑賀の方は、すぐに降伏したり、寝返ったりみたいな連中が多かったんですよね。

ただ、鈴木氏の動向が実際はどうだったのかってのが
結構、あんまり知られていないような気がしたので
質問してみました。(実際私も知らなかったですし)
ありがとうございました!




182: 人間七七四年 2008/05/06(火) 12:57:27 ID:qDgfbdv0

ふむふむ。参考になります。
じゃあ、実際は本能寺後に雑賀で実権を握っていたのは
根来寄りの土橋氏や太田氏であり、
鈴木氏がリーダーシップを取ってはいなかった、という事で
おおよその情勢把握は良いんですかね?
一部、そのまま残った鈴木一族もいたけども、と。
よくゲームなんかでは、鈴木氏が大名扱いになってるけども
1582年に雑賀衆という勢力を出すのなら、太田氏や土橋氏が
本来は代表なわけですよね?(少なくとも鈴木氏よりは)

じゃあ、本能寺~紀州侵攻の間
鈴木重意(佐太夫)やら、重朝やらは
どこで何をやってたんだろう?
彼らは残った「鈴木一族」の中に入るんですかね?




183: 人間七七四年 2008/05/06(火) 21:34:04 ID:wRyOeG3Y

>>182
これも難しいところですが、元々一揆衆であり、一つのまとまった勢力ではない雑賀衆において、
鈴木家はさらに特殊な家の1つであったことは間違いないかと思います

その最たる例が石山本願寺支援であり、
根来衆やそれに近い雑賀衆勢力が軒並み織田方についていることと比べるとその違いが歴然としています
そして、その対応の違いが雑賀衆の分裂・内紛の引き金の一つであったことはこれまでにも書いてきたことです

さて、本願寺顕如の石山退去の際、その和睦交渉の中継ぎ役として実は雑賀衆が出てきます
どうやら、このことを境にして雑賀鈴木家は織田信長との繋がりを持つようになり、
その後は織田信長の勢力を後ろ盾に土橋家との抗争状態に入ります
しばらくは織田家の後ろ盾のある鈴木家が優位にことを進めたようですが、
本能寺の変で織田信長が死に、鈴木家の後ろ盾を失うと事態は一転し、
土橋氏が鈴木家の居城である鈴木城に放火するなど、鈴木家の勢力の後退と土橋氏の伸長が目立ちます

その後の根来・雑賀衆の一体となった反秀吉的行動をみる限り、
本能寺以降の雑賀衆の中心は根来寺に近い太田党であったとみるのが自然です

さて、ここで問題になるのは本能寺の変の後に織田家領へ逃れたという鈴木孫一の存在です
彼が鈴木家中の誰を指すかというところが最初の問題となりますが、
実のところは明確に誰という結論はなさそうです






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