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みちのく瓦版

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戦国の義将 敦賀城主 大谷吉継について語ろう

kjhg

8: 人間七七四年 2009/09/18(金) 22:47:26 ID:EZ3fHafi

これだけの有名人物なのに、出身地が不詳ってのも不思議だな。
近江と豊後のどっちが有力な説だろ?




10: 人間七七四年 2009/09/19(土) 00:31:52 ID:4JjVRoGT

>>8
昨今は近江説が有力と言われているが、ぶっちゃけどっちも決めて無し。

ちなみに高階氏家系 青蓮院門跡坊官大谷氏の出身説ってのも一応ある。
が、これもやはりまだ決めてが無い。




11: 人間七七四年 2009/09/19(土) 00:41:13 ID:TkTfYMXA

wikiを見ると、オヤジの諱にも通字らしき「吉」(吉房)が付いてるね。
吉継の吉って、秀吉からの偏諱と思ったが、そうでもないのかね?




12: 人間七七四年 2009/09/19(土) 01:31:42 ID:4JjVRoGT

>>11
父を吉房とするのは、近江出身説の在原姓家系図から来ているだけなので確定ではないよ。
豊後出身説の平姓大谷氏の系図からだと父の名前は盛治になる。
そして青蓮院門跡坊官大谷氏の系図だと泰珍。
どれを信用するかで変わって来るし、どれも確定じゃない。
wikiの内容は結構いい加減。

吉継の吉は秀吉から、って説はあるけど信頼性のある出典は無い。可能性はある。




34: 人間七七四年 2009/09/23(水) 06:38:35 ID:Dvl8kSe6

なんかのTVで大谷は梅毒って言ってたが、wikiではハンセン病みたいな事が書いてあった。
結局、どっちなの?
詳しい人、教えてm(__)m




35: 人間七七四年 2009/09/23(水) 07:25:42 ID:1ysLNlSo

梅毒は10年経ったら脳を冒される
刑部は頭がしっかりしていたのでハンセン病と思われる




64: 人間七七四年 2009/09/28(月) 03:23:46 ID:W47+xpFf

徳川美術館にいったんだが、美術館所蔵の刀の目録の中に
吉継が徳川に贈ったという謂れの短刀があった。
美術館には400をこえる刀があるそうだが、月代わりで展示してるらしいので
タイミングあえば見られるんだろうな。




114: 人間七七四年 2009/10/09(金) 03:39:03 ID:saLttNGQ

「兼見卿記」の吉田兼見は吉継、東殿親子と交流も有り祈祷など行う人間だから
その人物の記した記録であるからには、簡単に無視できない信憑性があると思う。

三成より5歳年下、という所はその仕事ぶりを三成らと比較すると結構納得する所がある。
例えば「輝元上洛日記」には天正16年に輝元が上洛の際、世話になったり挨拶周りした諸大名らの名と
それぞれへの献上の品が細かく記されてるんだが、三成、増田たちと吉継の扱いがだいぶ違う。
奉行衆の中では格下っぽいんだな。この頃はまだ敦賀領主ではないからその差かもしれないが、
その敦賀城主になるタイミングも同期の連中とくらべると若干遅いので、年齢が低いほうが周りと折り合う。

能力差や出世スピードと年齢は関係ないのは解ってるんだが、常に行動をともにしてる
三成らと比べて見て行くと、どうも一歩引けてる感じがね。
後輩として補佐役だったのかなと思わせる所がある。
敦賀城主になって後以降はわりと対等っぽく見えるんだが。

賤ヶ岳の「吉村文書」についてだが、あれは同じ日付で秀吉の書状もあってセット。
つまり吉継単独の文書ではなく秀吉の添え状。
あくまで秀吉の側近として指示を伝える立場で(これも重要ではあるが)
この頃はまだ単独で強い権限があったというのとは違うだろうから、若年でもおかしくはないと思う。
あと一応、諏訪氏は眉唾と書いてる先駆け14人衆だが、このメンバーの年齢層的には
吉継19歳でも全然おかしくないよ。

草刈氏への朱印状の件は事実なら興味深いが自分も検討中。




115: 人間七七四年 2009/10/09(金) 07:32:53 ID:pCUJ50DR

>能力差や出世スピードと年齢は関係ないのは解ってるんだが、常に行動をともにしてる
三成らと比べて見て行くと、どうも一歩引けてる感じがね。

そうだね。
大名になる前とあとじゃ、扱いに差があるのは当然と思うけど
出世の順番には年齢が関係していたかもしれないね。
吉村文書は秀吉の添え状でも小姓に近い年齢ではたいしたもんだと思うけど。




116: 人間七七四年 2009/10/09(金) 12:07:06 ID:/9eOX6Pf

吉継が1565年生まれだと非常に若くしてふたつくらいしか
年の違わない真田信繁の岳父になったわけですね。
まあ養子養女で縁戚関係を増やした戦国時代では珍しくないんでしょうけど。
ところで没年42歳という方は何が根拠なんでしょうか?




117: 人間七七四年 2009/10/09(金) 12:45:13 ID:q57fRvZ8

>>116
享年42歳の出どころははっきりしないので探し中。
たぶん後の誰かの日記とか家記だと思うんだが。それか関ヶ原関係の軍記とか?

外岡氏が過去の記事で「27歳で刑部少輔に任じられた」という所伝から計算されてる説
って書いてたが、その所伝がどこからなのかは書いてなかった。
その他の人の記事でも通説すぎるのか、出典書いてるのをなぜか見かけない。
名将言行録にも享年42歳て書かれてるけど、これは出典にはならないしな。





119: 人間七七四年 2009/10/09(金) 21:35:35 ID:eFpgB/SG

>>116
享年42は例えば『烈祖成績』。




120: 人間七七四年 2009/10/09(金) 22:27:21 ID:/1I/MT8w

>>119
もっとリアルタイムのやつが欲しいな。
何を典拠に編纂したかは書いてなかったですか?




121: 人間七七四年 2009/10/09(金) 22:31:39 ID:eFpgB/SG

>>120
残念ながら出典記載なし。




118: 人間七七四年 2009/10/09(金) 18:45:59 ID:IKXnk3Z3

花ヶ前さんも、天正十三年、七月十一日、二十七歳のとき、刑部少輔に叙任された
と日付まで書いてますが、なぜか出典がないですね。




182: 人間七七四年 2009/10/19(月) 22:57:44 ID:Temlcymt

藤堂高虎の旗印って、大阪の陣では紺地に白の餅三つになっていて、大谷吉継の旗印と同じになっていますね。
関ヶ原に飾ってあるのは朱の餅(日の丸)三つだけど・・・
 偶然かぶっただけなのか、それとも?
 ご存知の方いらっしゃいますか?



 




183: 人間七七四年 2009/10/19(月) 23:19:05 ID:/WFP+n47

当時、白餅や黒餅の旗印は縁起かつぎから定番のものだったようなので偶然では?
高虎の旗は見るものによって紺地だったり黒地だったりしますね

ちなみに最初高虎は白地に黒餅3つだったところ、関ヶ原時に共に岐阜城攻めをした
黒田長政と黒餅なのがカブっていたため、長政に「カブって紛らわしい」と文句を言われたので
「黒餅(石持ち)より白餅(しろもち)の方が良い」などと言って黒地に白餅3つに染め直した
という逸話があるようです(出典不明)




187: 人間七七四年 2009/10/22(木) 22:18:15 ID:oMKnf/K+

吉継が称したのって源姓でいいんだっけ?




189: 人間七七四年 2009/10/23(金) 00:15:00 ID:pVL4+LkR

>>187
刑部叙任の際に源姓を自称してるらしい

永賞寺の供養塔に「預修源朝臣」の刻銘があるそうだし
実際の本姓が何かはともかく自称は源だったのかもしれない




188: 人間七七四年 2009/10/22(木) 22:40:32 ID:NFj7k3gR

先祖が桓武平氏の説もあるから違うんじゃない?




190: 人間七七四年 2009/10/23(金) 00:17:23 ID:BtlY6vxf

敦賀城主というが、敦賀城って敦賀のどこにあるんだ。織田軍が攻めたあの金ヶ崎城のことなのか。それともその後どこかに新しく城を作ったのか。




191: 人間七七四年 2009/10/23(金) 00:23:45 ID:pVL4+LkR




229: 人間七七四年 2010/01/25(月) 12:44:40 ID:hlwI/94V

そういや天正19年の吉継から政宗への書状で
宛名が「政宗」って呼び捨てになってるのが二通くらいあるんだけど
官位とか地位が政宗より上ってこともないだろうし
(政宗への敬称は秀吉で「との」、家康で「殿」、三成で「様」だった)
内容をちゃんと覚えてないんだが礼状?みたいだったので
実はすごくプライベートな書状だったんだろうか

宛名に諱呼び捨てって仲良くてもあまりやらないイメージがあったんだけど
実は結構よくやることなんだろうか・・・?




230: 人間七七四年 2010/01/25(月) 14:41:35 ID:rXpNhEGE

>>229
プライベートではないね。
奥州仕置きの最中の奉行としての指示とかで
9月7日の水沢・江刺に伊達政宗の代官設置を認める内容のと
9月22日の政宗に対して水沢・江刺に守備兵を求める内容。

そういえば敬称無いってめずらしいな。「政宗」だけだし。
でも宛名の位置は同格の位置か。
この書状は「大谷刑部のすべて」のしかしらないけど
原本でもそうなのかな?




231: 人間七七四年 2010/01/25(月) 15:14:42 ID:hlwI/94V

>>230

内容ちゃんと覚えてなかった、ありがとう
自分が見たのは大日本古文書の伊達家文書だった
原本どこにあるんだろう、見てみたいなぁ




232: 人間七七四年 2010/01/25(月) 22:21:06 ID:WyxJFOLo

>>231
原本、仙台市博物館にある模様。目録に載ってた
情報資料センターとやらに「資料のご相談も受け付けております」ってあるけど
展示してないのも頼めばマイクロフィルムくらいなら見られるのか?




260: 人間七七四年 2010/03/04(木) 20:52:50 ID:nVedHtzY

茶会でスルーされたり辻切り疑惑かけられた逸話が本当なら悲しかっただろうね(′;ω;`)
今でも沢山の人が刑部を愛していると伝えたいよ(′;ω;`)




261: 人間七七四年 2010/03/04(木) 21:48:43 ID:HTaBLvDl

>>260
千人斬り疑惑をたてられたのは本当
実際に大阪の街で噂になったから宇野主水日記とかに書かれている
もちろん真犯人は別に捕まってるのでただの濡れ衣
 
茶会の逸話は99%後世の創作
wikiだと出典が「宗湛日記」になってるが載ってないので間違ってる
さらになぜか天正15年て書かれているが、単に大阪城で1/3に大茶会があっただけ
宗湛が出席してるので勘違いされてるっぽいが、そんな記録はない
本当の出典が何か未だに不明なので99%にしたが、ぶっちゃけ100%創作だと思われる
 
病を煩ったと思われる時期から後も、刑部が周りにさけられていた様子は
一次史料からは一切見受けられない




262: 人間七七四年 2010/03/04(木) 22:02:50 ID:iGDujYWJ

見受けられなくても千人斬りの噂が立てられてしまうくらいだから
推して知るべし、ってとこじゃねぇの




263: 人間七七四年 2010/03/05(金) 09:59:16 ID:ZCc+/0Wm

千人斬りの噂は天正十四年だったか、1565年生まれ説だと21歳だな
天正十七年に敦賀拝領の時点で24歳ということを考えると
もの凄い勢いで出世してたことがわかるし、
それが嫉妬をかって立てられた噂と見るのが妥当じゃないだろうか

ところで、吉継の使った号「白頭」が白髪とか頭巾だったから、とよく言われるけど
号って外見で付けることないよね?
これそこらじゅうでいわれてるけど、あんまりそういう例なくね?と思うんだが
青蓮院関係だとすると、そっちでの僧号みたいなもんじゃないのかな




269: 人間七七四年 2010/03/05(金) 16:57:18 ID:ZCc+/0Wm

号を調べてたら面白いのに当たったので>>263に自レス

吉継の号を白頭でなく白以とする説もあるようなんだが(どうやら定まってないぽい)
Wikiの号(称号)のページを見ると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B7_%E7%A7%B0%E5%8F%B7%29

>例えば、李白は、名が白、字が太白、別号が青蓮居士

青蓮院門跡出自としたら、李白をもじって号したってのもアリかな?と思った
まぁ、ただのこじつけっていうか妄想なんだけどw




270: 人間七七四年 2010/03/05(金) 18:03:09 ID:OOck9Ows

>>269
お、面白い考え方だな
青蓮院大谷家の家系なら漢籍に精通しててもおかしくない
そういえば号を外見から決めるってあんまり聞かないし
あながち妄想とも言い切れないかもよ




271: 人間七七四年 2010/03/05(金) 20:21:52 ID:a0sOFFA4

>>269
「白次」と読むのではないかとされているのもある
号ではなく、吉継より以前に名乗った初名ではないかと
署名のされ方的にあり得るが、諱に「白」という字を使う例を知らないので違和感がある
実際の筆致からは白頭、白以、白次、どれもそう読めなくもない
 
外見が白髪だった、髪が病で抜けていた、白い頭巾をかぶっていた等の理由で
白頭を名乗ったというのは自分も違うと思う
白頭と読める署名は天正11年の紀介名義の書状からなので
そんな若い頃からそのような外見だったら、もっと記録に残ると思う
特に宣教師の記録には書かれやすそうだが、外見についても病についても何も書かれていない




264: 人間七七四年 2010/03/05(金) 12:23:15 ID:6zU1TLJ9

破格の出世をしたヤツが嫉妬だけで千人切りの噂なんて立てられるもの?
他にベースがあったと見るtべきでは?




267: 人間七七四年 2010/03/05(金) 15:32:02 ID:0+IQSQ+1

>>264
千人斬りの噂がたったのは、昨年秀吉が関白に叙任し
初の正月を向かえたばかりの頃(大谷も同じく刑部叙任したばかり)

そのため新政権確立に猛スピードで向かう秀吉への
当てつけで立てられた噂ではないかという説もある
その当時大谷は秀吉の側近だったので、ちょうど悪評の対象にされたとか

その年の宣教師の記録や本人の出世具合などからすると
だいぶ秀吉のお気に入りだった模様なので、ケチつけるにはちょうどいい




265: 人間七七四年 2010/03/05(金) 12:29:56 ID:FnCb0U9C

つーか大谷が敦賀城主になったのって31歳じゃね?




267: 人間七七四年 2010/03/05(金) 15:32:02 ID:0+IQSQ+1

>>265
生年1559年説だと刑部叙任が27歳で、敦賀城主になる時31歳
1565年説だと刑部叙任21歳で敦賀城主時25歳

現在は「兼見卿記」の記録の1565年説が有力視されてきている
 




273: 人間七七四年 2010/03/06(土) 18:52:28 ID:u/1YtcNi

茶会の逸話の出所は何なんだろうか?
江戸期の史料では見たことないんだよなぁ。
福本日南が『英雄論』や『豊太閤』で秀吉と吉継の逸話として書いているから、
元が存在するはずなんだけれども…。




274: 人間七七四年 2010/03/06(土) 18:59:42 ID:tlEGd54O

>>273
自分もそれ以上遡れないわ
というかこの逸話、いわゆる逸話集的な物には一切載ってないんだよな
講談本にも無かったし近年の小説くらいでしか見ない

福本日南も他の逸話とかは出典書いてたりするのに
これについては書いてない
なんかの随筆とか当時の雑誌とかにのった小説とか
そういうのの創作ネタのような気がする




275: 人間七七四年 2010/03/06(土) 19:03:07 ID:tlEGd54O

ああ、あと「英雄論」でも書かれているけど
そもそもは「史記」の呉起の逸話を下敷きにした話だし
元は秀吉を持ち上げるための逸話として
呉起のネタを拝借して作られた逸話と思われる




282: 人間七七四年 2010/03/09(火) 14:41:24 ID:PD5IsPJx

>>273-275
Wikiの茶会の逸話の項、とりあえず福本日南で補注にしておきました

ところで、文禄三年に草津に吉継が湯治に行ったということなんですが
書状で「草津の湯は目に効いた」という類の内容を誰かに送っている、ということですが
誰宛の書状かわかる人はいませんか?




283: 人間七七四年 2010/03/09(火) 15:04:28 ID:p2lgi25X

>>282
草津の件は文禄3年10月1日付けの直江兼続宛です
ちなみに「草津の湯は目に効いた」とは書いてないです
湯治は満足いったという事と、眼病については
「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」とあり、目を悪くしていた事が伺えます




285: 人間七七四年 2010/03/09(火) 23:12:33 ID:tKUDnsNL

>>283
よかったらその手紙が何に載ってるか教えてくれないだろうか?
今個人的に吉継関係文書類のデータベースを作ってるんだけど、
東大の大日本古文書のテキスト検索で出てこなかったんだよね

改めてまとめてると毛利と吉川広家宛の秀吉朱印状に出てくることが多いな
家が残ってるからそれだけ多いのかもしれないけど、毛利・吉川は吉継の担当だったのかね




286: 人間七七四年 2010/03/09(火) 23:47:33 ID:1n9w4H4p

>>285
自分が確認したのは木村徳衛の「直江兼続伝」
他に「温泉草津史料」第一巻所収との情報あり、こちらは未確認

毛利は輝元上洛の際にも接待勤めてるしね




297: 人間七七四年 2010/03/18(木) 18:45:47 ID:lvAS6Eb9

刑部の生年が1565年とすると真田に嫁いだ竹林院が娘なのか怪しい所だな
当時の婚期の早さを考えるとまったく有り得ないって話じゃないが

まぁ、秀吉子飼いの小姓衆では兄貴分的イメージがあるので
心情的には1559年説を支持したいが^^;




298: 人間七七四年 2010/03/19(金) 13:37:36 ID:bPwiQgG6

>>297
竹林院が嫁いだとされる文禄3年には吉継30歳
10歳くらいで嫁いだなら、幸昌を産んだとされる頃には16歳
もう少し早く生まれてた可能性ももちろんあるし、
あと1~2歳若くても産める年齢ではある
特に問題はないと思う

とりあえず顔文字自重




320: 人間七七四年 2010/04/01(木) 19:52:35 ID:r5KcWxeq

神谷宗湛日記での6月26日の箱崎茶会の件だけど
秀吉の機嫌を損ねて香椎村に蟄居を申しつけられたってのの原因は何なんだろう?




321: 人間七七四年 2010/04/02(金) 07:50:50 ID:qhWnLnZR

>>320
7月にはすぐ仕事復帰してるし大した事じゃなさげ
というかあれ蟄居なのか?




328: 人間七七四年 2010/05/27(木) 15:00:28 ID:ixHrYdLy

わかる人がいたら教えて欲しいんだけど、
兼見卿記に出てくる北政所付き女房の「東殿」と「ひかし殿」は同一人物と考えていいんだろうか?

昨日、天理図書館報に載ってる兼見卿記を読んでたら、「ひかし殿息女」って記述があったんだけど、
(文禄四年で25歳、太閤か北政所に仕えていたらしい)
吉継母の東殿とこの「ひかし殿」が同一人物なんだとしたら、吉継の妹にあたる。
だけど、外岡先生の論文では華頂要略の記述が見つかるまでは、
吉継妹の存在は認識されていなかったと書いてあった。
兼見卿記は吉継の病気の関係でよく引用されるから、知られてないのもおかしな話だと思って、
やっぱり別人なんだろうかとか、一人で考えてるとわけがわからなくなったんだよね。

なんかわかりにくい説明になってすまん・・・




329: 人間七七四年 2010/05/27(木) 18:34:32 ID:rR8EflHE

>>328
同一人物の可能性高いね
秀次の侍女にも「東殿」はいるけど(連座して処刑されてる)
吉継研究は進んでないから、見落とされているだけかもしれない
だいたい「妹」なら下間系図の記述もあるが、特に取り上げられてる事も無いし

実は華頂要略にある妹「コヤ」だが、秀吉の発給文書で北政所宛の物の中に
宛名が北政所の侍女の「こや」の物が数通あるんだ
なのでひょっとしたら華頂要略にある妹・コヤは、この北政所の侍女・こや
と同一人物の可能性があるのでは?と考えてた

自分も気になるので良かったら兼見卿記のどこにある記述なのか
詳しく教えて頂けないだろうか?




330: 人間七七四年 2010/05/27(木) 19:03:28 ID:ixHrYdLy

>>329
おお、ありがとう!
北政所侍女に「こや」がいるのか。
じゃあやっぱり同一人物っぽいなぁ。

「ひかし殿息女」の記述は天理図書館報ビブリアNo112のP73~74あたり。
文禄四年1月28日と2月1日の記述。
以下その部分抜粋

1/28
戌刻自大坂北政所被仰下了、ひかし殿文、当月廿五日太閤入御倉御道具盗取之、
未入御耳、此段御機嫌無別義、御祈祷之義、可抽懇丹之旨懇ニ承了、
予方へ之ひかし殿文也、然共与奪侍従之間、申聞侍従、御返事等調之、
又ひかし殿息女廿五才、御倉之御番也、今度御糾明不苦之様、祈念之義承了

2/1
ひかし殿息女廿五才、守調之、
ひかし殿より以飛脚文到来云、今度御倉ウセ物事、不及御糾明出之、
太閤御機嫌能、政所殿御祝着也、恩祈念之奇特ニ思召也、可存心安之由承了、
尤目出存也、安堵仕之由、御返事申訖、




331: 人間七七四年 2010/05/27(木) 19:04:37 ID:ixHrYdLy

ごめん訂正

×ビブリアNo112
○ビブリアNo122

全然違う巻を指定するところだった・・・申し訳ない。




332: 人間七七四年 2010/05/27(木) 22:09:23 ID:rR8EflHE

>>330
ありがとう、抜粋までしてもらってすまない
倉の番人か~

これは倉に泥棒入って失せ物があったけど、無事解決して良かった的な内容かな
わざわざ飛脚で結果を知らせてるあたり、かなり心配されてたっぽいね

文禄四年で25歳だと、吉継とは7歳、もしくは13歳も離れてる事になるのか
 




335: 人間七七四年 2010/06/05(土) 01:14:48 ID:o+/WPf9t

天正十年代初頭~文禄元年くらいまでだっけ
ちょうどそこが欲しいところなんだよなぁ・・・
刑部の病気が進行性である、という理由に兼見卿記がよく出されるけど
どのくらいの頻度か、どういった書き方か、というのが知りたい

全部まだ読めてないけど、ビブリアに載ってる部分がちょうど刑部が本格的に患った時期なのに、
刑部の病気平癒の祈祷をしたっていう記述が文禄年間には見られないんだよね
東殿から別件の祈祷の依頼は結構来てるんだがなぁ




336: 人間七七四年 2010/06/05(土) 04:09:47 ID:Ox6u4SL/

謄写本の文字部分的にしか読めないんだよな……
「ひかし殿」とか「刑部少輔」がなんとなく拾えるくらいだ

祈祷といえば良く聞く、秀吉が奥座敷で刑部の病祈願の祈祷を行った記録、ってのも兼見卿記?




346: 人間七七四年 2010/09/08(水) 03:42:47 ID:hgZEdbIA

平塚為広だっけ?部下は




347: 人間七七四年 2010/09/08(水) 09:06:04 ID:7oAN9idk

平塚は与力であって部下じゃねえ




350: 2010/09/23(木) 04:13:00 ID:MAYSH71I

大阪の蔵を空けてかき集めた浪人集3万、5万を大谷はんに預けたら
関ヶ原でも勝機はあった

この策を考えられなかった西軍は愚か




356: 人間七七四年 2010/09/29(水) 02:58:43 ID:nKIwtuV+

いやぁ、>>350とかよく考えつくなぁ
そんな烏合の衆を万単位で押し付けられたら吉継ブチ切れると思うわ




351: 人間七七四年 2010/09/23(木) 04:55:45 ID:SNT74Qdc

ぶっちゃけ、大谷さん嫌われていたのでは…
三成ほどではないにしろ。




353: 人間七七四年 2010/09/23(木) 15:17:42 ID:NVM9r0u/

三成以上に嫌われてたらお家騒動の仲裁頼まれたり和解の窓口になったり
西軍に寝返ったことが衝撃になったりしないと思うぞ

伊達政宗には嫌われてたかもしれんが、あれは奉行衆とは全方位型で仲悪いから基準にならんがw
そういや川角太閤記では前田利長とはかなり親密な様子で書かれてたな
家康暗殺の嫌疑をかけられた時に和解のために奔走してるようだった
あれは前田家肝いりみたいなもんだからこの辺は信憑性あるかもねぇ




354: 人間七七四年 2010/09/23(木) 19:50:49 ID:moqAzlo1

>家康暗殺の嫌疑の際
この辺大谷が和解の為に尽力した件は「村井長時筆記」「象賢紀略」などにも記載あるみたいだね
そういやこの辺はまだ読んで無いや

さらに上杉征伐の際、家康の出陣命令について、利長は大谷に相談して
家康の言うままに出陣をするよう決めたようなので、利長への窓口役もこなしてたんだろうね
まぁその後すぐに大谷は西軍ついちゃったからまた「西軍に味方してくれ」って書状出してるんで
利長は気を悪くしたんじゃないかとか言われてるがw

ちなみにお家騒動の仲裁の件は最近出た「豊臣記の宇喜多氏と宇喜多秀家」がすごく詳しくておすすめ
宇喜多家の領国支配の体制を巡っての対立から起った騒動と結論されてるんだが
豊臣政権に依存し、その政策を支持し推し進める秀家サイドと対立して騒動起こした家臣サイドが、
頼った所が豊臣奉行の大谷っていうのが、当時のポジション的にもいろいろと興味深い




355: 人間七七四年 2010/09/23(木) 22:02:26 ID:rsg8Yw1l

>>354
豊臣奉行といっても、あの頃はだいぶ家康にくっついてた頃だから
恐らく「大老筆頭の徳川方」として頼られたのだと思う
一緒に事に当たってるのは榊原康政だし

このとき家康に怒られて手を引いた、ってのも
実際泥沼化していて二進も三進もいかなくなっていた頃だから、
上から理不尽な怒られ方をしたから、という体裁を取ったようにも見えるんだよな
その後家康と距離を置いてるかといえばそうでもないところからみて




364: 人間七七四年 2010/11/24(水) 11:34:58 ID:xeMkItiR

質問があります。
石田三成襲撃に大谷が絡んでるそうですが、何故そうなったのでしょうか?




365: 人間七七四年 2010/11/25(木) 00:54:48 ID:CvqPwIZr

>>364
普通に豊臣奉行として自然な関与の仕方だと思ったが。

大谷の七将襲撃事件についての関与は、
毛利元康宛毛利輝元書状『厚狭毛利家文書』に書かれているが

これによると三成は毛利、上杉に協力を仰いで襲撃側
(この書で輝元は「内府かた」と書いてる)と徹底抗戦する構えで、
それについて大谷は輝元に対して、
大阪城をすでに「内府かた」に押さえられてるなど既に戦うには不利な状況の為
「毛利が戦を引き受け三成に加担するのは無益である」と諌めつつも
「下屋敷に下がらず家康と対峙するように」
「人数合わせをするのがいい」と言っており、
軍事闘争は断念しつつも、和解交渉を有利にするために兵力を集めて
表向き対抗の姿勢を崩さないのが良いだろうと言う事を言って来ている。

この時三成と一緒に五奉行の増田、玄以、(おそらく長束も)伏見城に籠っていた様で
とくに増田は三成と同等なくらいターゲットにされてた模様。

つまり七将の襲撃は三成を筆頭に豊臣奉行全体も絡んでいた事件で、
同じく豊臣奉行の大谷が奉行衆の為の行動をとっていてもおかしくは無い。




366: 人間七七四年 2010/11/25(木) 11:01:49 ID:wYRHK2+X

>>365
「関ヶ原前夜」の記述からだよな?
その辺は書状原文の解釈でちょっとニュアンス変わると思う
少なくともソースになってるこの書状では、大谷が奉行方かどうかははっきりしないんだよな
むしろ内府方として交渉に当たっていたと取れなくもない
「下屋敷に下がらずに家康と対峙」「人数合わせをして」云々も、ちょっとニュアンス的にこれで正しいのかわからん
というより、この部分が大谷の発言だったかどうかも曖昧だなぁ
この著者は「大谷が奉行方で軍事行動を起こそうとした」という前提で書いてるからこの解釈なんだろうけど
その前提を裏付けるものが提示されてないので、それまでとそれ以降の大谷の徳川寄りの行動を見ると
むしろ徳川方として和解の交渉役だったと見る方が自然な気はする
それ以前に大谷の積極的な関与が裏付けられたら疑問もなくなるが、今は裏付けがないのでこじつけ感はあるかな
あと前田玄以は確かこの時の伏見在番だったので、むしろ巻き込まれたと見ることもできる




367: 人間七七四年 2010/11/26(金) 00:05:21 ID:g4vAs7Py

>>366
「大刑少より申さる事に、下やしき罷り下るの由然るべからず候、内府向い面に成り候様に候との事候
(中略)
ただ引き取りて加担無益にて候、辻合わせ計り然るべく候との内意候」

↑だから、輝元が嘘書いてないなら大谷が言って来た事なんだと思うよ。解釈の違いがあるのはともかく。

確かにあの本は「大谷が奉行方で軍事行動を起こそうとした」前提で書かれているが、自分はそうは思ってない。
やっぱり前後の大谷の行動としては、一貫して徳川との軍事対立は避けようとしてる動きしかしていないからね。
上記の輝元への言でも戦う意思はなさそうだ。

ただその奉行衆や他大老たちと徳川方との軍事対立を避けようとする動きが、
イコール徳川の為の行動としか取れないわけでも無いと思う。
秀吉死後ずーっと徳川の為に行動していると見たとすると、やっぱり関ヶ原直前の西軍加担があまりに唐突すぎると思う。
この辺の西軍入りについても諸説あるけど、あまりに唐突に見えるからなのは確か。

で、逆にあくまで豊臣奉行衆側としての考えで、徳川との軍事対立を避けようとしてたとも取れるんではと思った。
五奉行から外れているからか、この頃の大谷は奉行衆として数えないような扱いされがちだが
直前の文禄3年頃までは三成、増田と並んで中枢に居た、後の五奉行達と変わらない位置にいた奉行であって、
豊臣の人間として秀頼を立てての豊臣政権を守りたい気持ちは、他子飼い衆らと同じくだろうし
経歴、境遇からして同じくして来た三成ら奉行衆との方が、考え方も身の置き所も近かったと思った方が自然じゃないかな?

豊臣奉行衆と徳川以外の大老の力がちゃんと機能していれば、少なくとも徳川の政権乗っ取りが容易には至らないだろうとは考えられるし
そういう方面からの考えなら、軍事対立で徳川以外の奉行大老らの力が削がれる事になるのは避けたいと考えてもおかしくないと思う。
まぁ徳川方との親交もあったようなので、徳川びいきな一面からも戦いは避けたいみたいな風にも思えるが。

ただやはり全て徳川の為と言う訳ではなく、派閥としてはやはり大谷も三成ら奉行衆派の一味だったんじゃないかなぁと、
三成みたいに徳川絶対排除!みたいな意思は無いだろうが。

そういう一考から「関ヶ原前夜」の解釈も一理ありかと、
なので七将襲撃の時のこの動きも徳川方に依頼されての使者だったとしても、大谷はあくまで「豊臣奉行としての関与」だと思った。

ただこの考えにもちょっと利家VS家康の時の状況が引っかかってるんで、まだなんとも。
この辺はまだ詳しくは未調査。

あと留守居役の玄以(+長束)が巻き込まれただけ、ってのは同意。




378: 人間七七四年 2011/02/18(金) 23:20:44 ID:ZBiznP6Y

大谷吉継はそもそも「フラフラしている」と評されるほど資料が残っていないというか、まとめられていない
今残されている資料をまとめて俯瞰すると、「どちらかというと徳川寄りの中立」と読むのが一番しっくり来る
個人的には、増田長盛と似たような立場だったと思ってるけどね

とはいえ石田派のはずの小西行長も息子に家康の養女を嫁に貰う予定だったから、
そもそもその当時徳川と石田の対立自体がどこまで深かったものか再考の余地があるかもしれんと思う




379: 人間七七四年 2011/03/24(木) 09:58:00.92 ID:rknZfaAT

最近大谷さんのことを調べるようになったのですが、幼名は慶松ですよね?
読み方はけいしょう、よしまつなど書かれていたのですがどれが正しいのでしょうか?




380: 人間七七四年 2011/03/25(金) 00:16:02.26 ID:b/Jgw3tZ

慶松・桂松と両方説があるけど桂松の方が幾分通りがいいと思う
というか、吉継の幼名は逸話でしか出てきてないので本当のところは不明
なので「これが正しい」というのはないよ
「よしまつ」でも「けいまつ」でも「けいしょう」でも好きに読めばいいんじゃないかな

ところで名前といえば、「平馬」って通称は武功夜話から?他に出典あるんだろうか
自官ならまだしも、通称を数年で変えるってあるのかね




381: 人間七七四年 2011/03/25(金) 00:43:44.37 ID:xAeMe9IA

桂松は一柳家記にでてくる表記、慶松は草刈重継文書とか根来焼討太田責細記に登場する。
ちなみにどちらも「よしまつ」と読めるし、幼名は訓読みするのが一般的なので普通なら「よしまつ」かな。

草刈重継文書にでてくる「大谷慶松」が吉継の事かどうかは今イチはっきりしない所。
↑の慶松は例の秀吉の織田時代、中国攻めの時に草苅氏に寝返り要求した時の使者を務めた人間の名前ね。
時期的に使者やるには若すぎるっていう点さえなければ吉継でもおかしくないんだが。

一柳家記は後の記録だから、「慶松」が吉継なら字間違ってるのはこっちじゃないかと思う。

「平馬」は多分、古今武家盛衰記から。武功夜話よろしくこっちも内容は怪しいから当てにならない。
平馬は東百官の一つで江戸時代にはポピュラーな通称だが、流行り出したのは天正末期頃から。
吉継の生きてる同時代の史料にはいっさい出てこないし、吉継が使うにしては時期が合わないから
信憑性は正直無いと思ってる。




411: 人間七七四年 2011/09/08(木) 21:36:49.12 ID:sdbFf3Zx

やっぱり吉継の病気って甲冑も着られないくらいだから痛みも伴うんだろうな。
だとすれば領地の領主の公務だけでも身体に相当な負担になってたんじゃないかな。




412: 人間七七四年 2011/09/09(金) 10:29:08.55 ID:bG0sHAHA

そもそも関ヶ原の時も部隊の実戦指揮してたのは平塚為広だったとも言われている。




413: 人間七七四年 2011/09/09(金) 22:30:27.78 ID:pML/ZG02

>>412
視力をほとんど失ってたとしたら、
臨機応変な細かい実戦指揮は平塚に委ねてたとしても不思議じゃないな




414: 人間七七四年 2011/09/10(土) 03:06:21.51 ID:5yK/x3v5

関ヶ原では吉継は、武士としてほぼ最高の死に様を見せられた。
少なくとも武士としては幸せな最後だったというべきだろう。




415: 人間七七四年 2011/09/11(日) 01:08:18.84 ID:oDMi39c5

>>414
武人として完璧かつ、多くの日本人が好む散り様だよなあ
詳しい記録がないのも相俟って判官贔屓されるのも納得できる

もれなく祟りのオマケも付くけど




450: 人間七七四年 2012/03/14(水) 11:11:57.09 ID:GMnnZGtY

しかし豊臣政権の研究はけっこう進んできているというのに、
相変わらずこの人はどんな事をやっていたのかほとんど解からんな




451: 人間七七四年 2012/04/02(月) 18:52:50.14 ID:Ib/va6Xb

後期、というかゴタゴタしはじめてからはほぼ隠居みたいなもんだからなぁ
天正~慶長前半くらいまではそこそこわかってきてるんだけどね




457: 人間七七四年 2012/04/14(土) 00:48:25.33 ID:yxJ1wGfF

そもそもが文禄の役おわるまでは普通に朝鮮渡海して三成や長盛と軍奉行やってたわけだし
膿が滲むほど病が進んでたらできない仕事ではあるよな

それも含めて、状況証拠から吉継の病はたぶんハンセン病ではないんじゃないかと個人的には思ってる
数ヶ月で一気に仕事ができないレベルまで進むような病気じゃないしね(梅毒もそうだけど)
一時はひどかったようだけど慶長三年以降はまたそこそこ表に出てくるようにもなってるし
慶長四年だかあたりには梵舜とかと女能を見に行ったりもしてるから、目も多少よくなってるっぽいし




458: 人間七七四年 2012/04/14(土) 09:00:00.95 ID:AZSFR8hM

ハンセン病だろ、適切な処置が施されてないんだ、一気にくる事もあるだろう。




461: 人間七七四年 2012/04/29(日) 01:37:43.80 ID:bWrd/HeM

>>458
ハンセン病は非常にゆっくり進行する病気だから、数ヶ月で一気に悪化することはないよ




462: 人間七七四年 2012/05/02(水) 19:00:18.13 ID:qPeZkZlY

>>461
おそらく重篤化したのが文禄三年の秋以降で、慶長二~三年くらいには回復してるのよな
秀吉が見舞いに行った後くらいにはちょこちょこ表に出てくるようになって
慶長四年には梵舜他数名と女能見物に行ってるからこの時にはかなり回復してたとみていいと思う
特効薬のなかった当時のハンセン病は重篤化したら回復しなかったから、この重篤化→回復の流れは別の病気を疑うな
そもそも当時の史料にハンセン病を特定するものもないしな




459: 人間七七四年 2012/04/16(月) 22:54:20.71 ID:BiP4wWAP

関ヶ原までは豊臣政権内部の親家康の代表格だった人。
あるいみ藤堂高虎より露骨に家康に従ってた。




460: 人間七七四年 2012/04/17(火) 02:50:21.54 ID:Eg8t6tzM

先見があったのだろう




465: 人間七七四年 2012/05/23(水) 20:01:30.81 ID:uOFjeZwl

吉継は三成とも家康とも親しかったから関ヶ原前に苦悩しただろうな




466: 人間七七四年 2012/05/23(水) 21:40:42.01 ID:H4NPZrS+

家康と親しかったという記録はあるが、三成と友情というほど親しかったという記録は存在しないんだなこれが>吉継




467: 人間七七四年 2012/05/24(木) 08:47:15.44 ID:USiih5a2

いつ頃から世間でそんな風に言われ始めたか興味あるな




484: 人間七七四年 2012/07/18(水) 18:00:44.33 ID:Kzpf8gBi

実際のところ、何故西軍についたか理解できないよね




485: 人間七七四年 2012/07/18(水) 19:58:44.93 ID:8BmSGQo3

まあ、三成の側から見れば大谷吉継は、宇喜多騒動で榊原康政といっしょに介入するほど、
ほぼ家康の配下として活動していた親家康派の筆頭と言っていい人物であって、
それを自分の陣営に寝返らすというのは、西軍の戦略上非常に重要なことなのは間違いない。

逆に吉継で成功しちゃったせいで、東軍の結束を舐めてしまった、と見えなくもないが。




486: 人間七七四年 2012/07/18(水) 21:09:05.24 ID:mjRe+gqz

・宇喜多騒動鎮圧の失敗を家康から叱られた
・西軍のからより多くの恩賞を提示された
・秀吉と縁深かった母親による西軍参戦への説得
・重病ということもあり最後に死に花を咲かせたかった

藤堂と双璧をなすほどの親家康派だった吉継が家康に背き西軍に与したのは
この中のどれかが要因もしくは全てという見解が妥当だろうね
石田三成はまったく関係無いと思う




487: 人間七七四年 2012/07/18(水) 23:00:01.86 ID:sgYlIA3+

石田三成がまったく関係ないってのは言い過ぎなんじゃないの
そりゃ三成との友情でってのは創作の領域だけど
共に奉行を担当した回数などから言って距離の近さでは三成が調略担当者として最適、くらいではあると思う

あと吉継が親家康派の筆頭とか藤堂と双璧をなすくらいってのもさすがに言いすぎじゃないかなあ
宇喜多騒動はそもそも戸川派が吉継に調停を依頼して、吉継が榊原を仲介として筆頭大老家康に介入を要請したようなもんだし
ほぼ配下ってのはちょっと 家康派なのは間違いないけど

重箱の隅をつつくようでなぜ西軍についたかに関する議論にまでいってなくて申し訳ないが




493: 人間七七四年 2012/07/26(木) 19:36:50.70 ID:+r0rI2R0

>>487
例の茶会の話やドラマでお馴染みの挙兵時のやり取りは創作だけど
宗湛日記には一時吉継が秀吉の機嫌損ねて謹慎させられてた時に
兼ねてから宗湛の茶道具を見たがってた吉継のために
三成がこっそり取り計らってあげたって記述がある。
宗湛日記自体に偽書説があるからこれも本当かわからんけど。




495: 人間七七四年 2012/07/26(木) 22:35:12.10 ID:tkKQMCCS

> 宗湛日記自体に偽書説があるからこれも本当かわからんけど。

どうも少なくとも江戸期に作られたっぽいんだよね。
史料として考えるには慎重になったほうがいいと思う。




501: 人間七七四年 2012/08/24(金) 01:51:37.93 ID:lA5PXYLK

結局のところ吉継って相当謎に包まれてるんだよな。
関ヶ原で西軍についたのも友情云々というより、北政所の側近だった
母ちゃんから頼まれたからという説もあるし。




502: 人間七七四年 2012/09/09(日) 00:10:04.42 ID:qPyU6G8A

>>501
でも関ヶ原前は徳川派だったってのは確かだからなぁ。
なんだかんだいってかなり強い理由があったんだろう




510: 人間七七四年 2012/11/18(日) 16:30:23.50 ID:VXVJmWZl

親家康だったという史料って何かあるのかな




511: 人間七七四年 2012/11/20(火) 02:15:26.52 ID:xsCMkyAV

>>510
秀吉死後~関ヶ原までは、親家康じゃなかった史料を探す方が難しいと思う
利家と家康が一触即発まで行った時も家康の方に駆けつけてるし
三成襲撃事件の時も家康方について調停してるし
前田利長の謀叛疑惑の時も家康方の立場で説得に行ってるし




503: 人間七七四年 2012/09/22(土) 16:40:08.02 ID:tC+a7gIE

そもそも西軍首謀者の三成自身が別に家康とはそんなに険悪な関係でも無かったって言われてるしな。




507: 人間七七四年 2012/11/14(水) 20:18:12.07 ID:btMZpiZH

家康との決別の切欠は宇喜多騒動かな?




508: 人間七七四年 2012/11/14(水) 22:54:23.62 ID:NVGc6ows

>>507
自分はそうは思ってないな
吉継が仲裁を頼まれたのは秀家からではなく宇喜多の出奔組からだし
家康が出て来ざるをえなかったのも、秀家が全く折れなくて
大谷・榊原コンビではどうにもならなかったからだからなぁ
とすれば、出奔組に甘い裁定になったところで吉継が不満に思うこともない

母・妹・妻子・真田信繁に嫁に出した娘、みんな上方にいたわけで
(おそらくは主要な家臣の妻子も)
この辺を人質に取られて転んだってところが真相に近いんじゃないかね
実際、上方に戻って真っ先に真田の妻子の安全を確保してるしな




511: 人間七七四年 2012/11/20(火) 02:15:26.52 ID:xsCMkyAV

宇喜多騒動は>>508の通りで、島津の庄内の乱の時にも家康の下から折衝役で出てる
実質石田・浅野の穴を埋める形で五奉行に準ずる立場にいたようで、それも家康の取り立てだからね
上杉との関係からして、まっすぐ会津征伐に向かえれば何らかの交渉窓口を任されていたと思う




559: 人間七七四年 2014/12/12(金) 03:45:33.32 ID:K0LLG4Id

>>511
2年前のにレスするが、舜旧記に次のような記述があって読み様によっては「吉継が秀秋から離反した」ともとれるとか

美濃堺、於柏原、内府先勢、福田[嶋カ]・長岡越中・加藤左馬助、合戦之由、
□大□之勢、敗北大谷刑部打死、余吾殿(小早川秀秋)依叛逆也、巳刻也、掉山[佐和山]落城




509: 人間七七四年 2012/11/15(木) 00:18:55.92 ID:iHVHX2HN

それだといくらでも家康に内応するチャンスはあったと思うけどなあ。




511: 人間七七四年 2012/11/20(火) 02:15:26.52 ID:xsCMkyAV

>>509
戸田・平塚がガチガチの太閤シンパなのが気になるとこだね
ただ、要請があったというのに大垣入城しなかったのは不思議
あんだけ妙な動きしてた小早川をスルーして松尾山に入れちゃったし
実は内応の約束してたけど寝返る隙がないまま寝返り四将に討ち取られたとか妄想してみる




565: 人間七七四年 2015/02/07(土) 23:59:51.65 ID:QG5KHeYc

>>511>>562
平塚為広は、当初は東軍に参加しようとして大谷吉継ととともに三成に
挙兵を翻意するように説得している
ガチガチの太閤派なはずがない




565: 人間七七四年 2015/02/07(土) 23:59:51.65 ID:QG5KHeYc

>>511>>562
平塚為広は、当初は東軍に参加しようとして大谷吉継ととともに三成に
挙兵を翻意するように説得している
ガチガチの太閤派なはずがない




553: 人間七七四年 2014/06/05(木) 00:52:04.94 ID:JwZUSxwB

>>540
湯浅五助




562: 人間七七四年 2014/12/17(水) 13:45:24.61 ID:6XNCQPOh

家臣は蜂屋、下河原あたりはよく見る。軍記でよければ家臣の名前ぐらいは結構出てくるよ。

>>511
平塚と戸田ががちがちの太閤親派だったなんて話聞いたことないけど何か根拠あるの?




565: 人間七七四年 2015/02/07(土) 23:59:51.65 ID:QG5KHeYc

>>511>>562
平塚為広は、当初は東軍に参加しようとして大谷吉継ととともに三成に
挙兵を翻意するように説得している
ガチガチの太閤派なはずがない




541: 人間七七四年 2014/01/10(金) 19:32:30.67 ID:AEo2Udbe

大谷吉継の代に秀吉に使える事で立身出世したわけだから古くからの家臣団ってのは無いわな






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