みちのく瓦版

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四国の戦国大名について語ろう その1

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たった一つのカメラ盗難がその後起こる大事件の序章に過ぎなかった話

面接で「あなたは勇者に選ばれました、まずなにをしますか?」と聞かれたから


2: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/09(金) 21:23:46 ID:Wh3OtXxt.net

とりあえず有名どころ

伊予・・・河野、西園寺、宇都宮、来島
土佐・・・長宗我部、一条、土居、安芸、香宗我部
讃岐阿波・・・阿波細川、三好、十河、池田、香川、大西
淡路・・・篠原、安宅etc...
水軍・・・風早河野、三島村上、来島村上、飽塩、篠原etc...

その後の四国にまわされた武将、藩主など。
伊予…加藤嘉明・光泰、藤堂、脇坂、戸田、福島、小早川、安国寺、伊達、一柳、蒲生、久松etc...
土佐…長宗我部、山内
讃岐阿波…十河、香川、長宗我部、生駒、蜂須賀
淡路…仙石etc...




10: 人間七七四年 2007/02/14(水) 01:08:03 ID:79KgR5oO.net

河野ってどうやって滅びたの?




11: 人間七七四年 2007/02/14(水) 05:44:02 ID:mgpQQoQ1.net

長宗我部の侵攻に耐えきれず降伏
その後、秀吉の四国征伐で長宗我部共々所領没収




12: 人間七七四年 2007/02/14(水) 12:44:14 ID:iXOKgEOV.net

伊予は水軍が発達して交易が盛んだったろうから
湯築城下はかなり賑わってたんだろな。
石高も32万石(伊予全体で)とまずまず豊かなほうだ。
河野家の当主がもうちと出来た人物だったらな。




14: 人間七七四年 2007/02/14(水) 21:03:44 ID:w2jcvE//.net

>>12
河野通直の後継を娘婿の来島通康にする話がすんなり通ればよかったのにね




97: 人間七七四年 2008/04/18(金) 01:04:12 ID:LUlAoOTJ.net

>>14
最近は、来島騒動は、通直の後継争いなどではなく、
親大内派と親大友派の争いで、親大友家臣団が晴通をかついで
通直に対抗したもので、当時の西日本の情勢の変化に影響された結果だと
いう研究があるね。
っていうか、来島通康も晴通も通宣もみんな通直の実子だそうだし。これが事実なら、
通康は妹とケコーンってことに。萌える。




99: 人間七七四年 2008/04/18(金) 01:16:22 ID:8X+ZWnyb.net

>>97
全くの空想なんだがその場合は通康の妻が実は来島村上氏の出だったて可能性は?




100: 人間七七四年 2008/04/18(金) 11:43:37 ID:LUlAoOTJ.net

>>99
まあ、来島通康の妻として有名なのは河野通直の娘だけど、
宍戸隆家娘もいるからね。
来島の末裔の誰かが、河野氏の総領家としてふさわしいのは、
我が来島だ!として、通直の娘婿だったんだぞ、さらに通直は
通康に家督を譲ろうとしたんだ!くらいのことをでっちあげたのかも。
なにしろ、河野氏って、戦国時代は弱弱で、これといった実績もないくせに
支族末裔はえらい多いし、何故か伊藤博文までが河野氏の出と言い出す
始末。正岡子規や秋山兄弟がが河野の末裔を名乗ったのは、同じ松山だからわかるとして、
なぜ、伊藤。明治時代の西瀬戸内は突然の河野氏ブームだったのか。




16: 人間七七四年 2007/02/15(木) 09:46:23 ID:erTiUbfz.net

河野氏の功績は
大山祇神社を保護し多数の武具等を後世に伝えたことだな




28: 人間七七四年 2007/06/30(土) 03:12:22 ID:heEmh/AR.net

>>16
でも世間では全然知られて無いよね




17: 人間七七四年 2007/02/18(日) 04:34:34 ID:zgNWr4HN.net

伊予の西園寺家はマイナーかな?




19: 人間七七四年 2007/03/08(木) 13:48:06 ID:6i6MjiL9.net

>>17
公良が伊予松葉城(岩瀬城)に入ったのは 永和2年(1376)と
土佐一条よりだいぶ前なんだけどね




34: 人間七七四年 2007/09/08(土) 02:08:21 ID:O2Vqot9h.net

河野に「通直」って名前の奴は、何人いるんだ?w




9: 人間七七四年 2007/02/13(火) 14:32:41 ID:O9ntWpwm.net

河野氏は同名の武将が多くて分かり辛い。




35: 人間七七四年 2007/09/08(土) 03:24:49 ID:Om9L72ud.net

15世紀末期からだと、
通直(教通)-通宣-通直-通政(晴通)-通宣-通直-通軌
なので約100年の間に3人もいるなw




98: 人間七七四年 2008/04/18(金) 01:09:23 ID:LUlAoOTJ.net

>>35
通直(教通)のひいじいさんも通直(通尭)だ。
ともに、刑部大輔なので官名で呼び分けることもできず、厄介だ。




46: 人間七七四年 2008/01/17(木) 00:52:16 ID:FCVileqf.net

四国の大名は元弘・南北朝・応仁でどのように分かれたの?




47: 人間七七四年 2008/01/18(金) 05:19:55 ID:p7mjhltD.net

その時期の四国はほとんど細川一色じゃないかな
伊予や淡路が南朝の根城だったらしいけど




48: 人間七七四年 2008/01/21(月) 18:23:44 ID:d4xUONr2.net

鎌倉時代から残っている家はほとんどないんじゃ。河野は本家は六波羅主力→北朝。分家は討幕→南朝だったはずだけど。




49: 人間七七四年 2008/02/07(木) 14:59:40 ID:/rftLgSZ.net

土佐に満良親王が派遣されたんだって?あまり聞かないね。




50: 人間七七四年 2008/02/11(月) 23:53:33 ID:fYnrwswg.net

親王は彼方此方に派遣されてるからな




53: 人間七七四年 2008/02/24(日) 14:17:59 ID:BnwSJIvq.net

東予は河野氏の支配も今ひとつ浸透しなかったようですな。




54: 人間七七四年 2008/02/24(日) 15:45:52 ID:/yrn5prg.net

南予だって西園寺が事実上独立してたし、実質的に河野は中予だけの戦国大名だな。




55: 人間七七四年 2008/02/24(日) 15:51:29 ID:BnwSJIvq.net

河野氏は代を重ねる毎に弱体化していったのですな。
数多の分家や被官をまとめる求心力がね。




56: 人間七七四年 2008/02/25(月) 00:09:50 ID:mn4hyrGG.net

最後は毛利に寄生するような感じだったしね(最後の当主が舅の小早川隆景に寄宿)。
フェードアウトというか、縮みっぷりが物悲しいw。




58: 人間七七四年 2008/02/26(火) 02:11:05 ID:ToqOw7Uq.net

南北朝期の伊予は河野本家は北朝方で伊予国守護・宇都宮氏に従っていました。
河野支族の土居氏・得能氏は南朝方ですな。海賊衆の村上氏・忽那氏・祝氏らと共に
活躍し、一時の伊予は南朝方が優勢ですらありました。
しかし讃岐守護・細川頼春の西進によって壊滅するのですな。
それに端を発している訳でもないのじゃが、河野本家は求心力に欠けているのですな。




59: 人間七七四年 2008/02/26(火) 15:55:24 ID:ToqOw7Uq.net

連投で相済みませぬ。
戦国期になっても伊予一国を支配するほどの大名は遂に現われず、
中予の河野氏・宇都宮氏、南予の西園寺氏あたりが大名クラスですかな。
宇都宮氏は鳥坂峠で敗れて後は家臣の大野氏に取って替わられますな。
大野氏は河野支族でありながら長宗我部氏と結んで反河野行動をとります。
東予はも細川氏の元被官の石川氏がおりましたが、家臣の金子氏・高橋氏が
台頭、金子氏は長宗我部氏と同盟を結びますな。
長宗我部氏の伊予進出は中予・東予では在地勢力との同盟関係で行われたが
南予では軍事行動でしたな。
九州の大友氏や土佐一条氏との戦いで弱体化した西園寺氏を最終的には制圧。
もはや河野氏にとっては毛利氏との結びつきを強める事でしか存続を図れなかったと
いう事ですな。
その甲斐あって秀吉の四国侵攻まで河野氏は中予支配を維持して、長宗我部氏の
四国統一を完成させなかったのですな。
長文にて申し訳ございませぬな。




61: 人間七七四年 2008/03/02(日) 04:36:22 ID:gyM9mSpl.net

江戸時代の来島氏って、九鬼氏みたいに内陸の大名家になってるんだな。




62: 人間七七四年 2008/03/02(日) 05:15:11 ID:YwvaBbTA.net

>>61
関ヶ原合戦の際、当初は西軍として村上水軍と共に伊予の東軍方を攻め、
のちに東軍側に加わって、豊後国の内陸部に1万2000石を賜っています。
九鬼氏同様に徳川幕府の水軍封じ込めの一環だと思われますな。
村上水軍は東軍の加藤嘉明居城を攻めた際に当主の元吉が戦死、嫡子は
毛利氏の船手方として周防国三田尻に移り、海賊衆の伝統を残したのとは
対照的ですな。




63: 人間七七四年 2008/03/02(日) 05:35:53 ID:gyM9mSpl.net

>>62
時代を下るにつれて、水軍の技術は失われていったんでしょうな。
残念なことです。




64: 人間七七四年 2008/03/02(日) 05:41:00 ID:YwvaBbTA.net

>>63
同感ですな。
ただ今でも周防から長門あたりには「○○丸」等の船名のような苗字の方も
おられますが、もしかするとその名残りなのかも知れませんな。




65: 人間七七四年 2008/03/02(日) 06:46:01 ID:WEN+Wl9p.net

>>64
「〇〇丸」の元は船の名前ではなく、小高い丘のことを「丸」と俗称することに由来すると思われ。
西日本(北九州と山陽)に多い苗字らしいので、船名を由来とする家も中にはありそうだけどね。




68: 人間七七四年 2008/03/04(火) 12:12:07 ID:PewZeKBt.net

河野は秀吉の四国征伐まで滅びなかったんだから
毛利の助けがあったにせよ底力はあったんじゃないか
周囲の強豪に何度も攻め込まれているが防戦に関しては9割方勝ってるよ
しかし四国の戦国大名ってひとつ残らず滅亡したな




70: 人間七七四年 2008/03/05(水) 18:08:00 ID:bShuCa07.net

仙石がいなかったら戸次川で信親が戦死する事もなかったかも。
そうしたら四国の歴史も少しは変わっていたのでは。




71: 人間七七四年 2008/03/05(水) 20:40:34 ID:r7CV4bDi.net

あれって四国の大名を一掃する為のわなだったんじゃないかとすら思う




105: 人間七七四年 2008/05/20(火) 22:59:49 ID:aJ1EZa5C.net

>>71
結果として戦国期に四国で活動していて江戸期に大名家として残ったのは来島家だけ、だと思う。
伊予の西園寺氏も戸田氏に謀殺されているし、同時期の竹原での通直の死も病死でないのでは、
としている研究もあるね。




73: 人間七七四年 2008/03/09(日) 01:40:44 ID:8cRtguy1.net

元親夫人の奈々が亡くなったのって1584?それとも九州征伐の頃?




74: 人間七七四年 2008/03/10(月) 02:19:56 ID:gOMkXPdQ.net

戸次川合戦で信親を失い、伊予の日振島で落胆していた元親が
妻の死の報にも接して、さらに落胆したとする史料もありますね。




75: 人間七七四年 2008/03/10(月) 02:46:14 ID:Q9mQppUA.net

盛親に家督をつがせたのは、菜々の子だったから?




76: 人間七七四年 2008/03/10(月) 05:34:46 ID:1W+s2XVl.net

単に上の2人はもう養子に出しちゃってたからじゃね?




77: 人間七七四年 2008/03/11(火) 16:19:14 ID:Q9fTyX9f.net

信親も菜々の子だから、2人が亡くなってショック受けたため、菜々の子で信親の実弟の盛親に家督を譲りたかったのかも




78: 人間七七四年 2008/03/11(火) 23:21:56 ID:9ta/11fm.net

他家に出た二人は別腹だったの?




79: 人間七七四年 2008/03/12(水) 00:57:23 ID:1/PjFXY1.net

全員が同腹の子かと。




80: 人間七七四年 2008/03/12(水) 02:18:34 ID:WX2t8Amf.net

そうだったのか
自分77だが、夏草の賦には「菜々の子は盛親だった」みたいに書かれてたので養子に行った二人は側室の子かと思ってた

間違ってたならすまん




81: 人間七七四年 2008/03/12(水) 21:02:21 ID:1/PjFXY1.net

美濃の斉藤伊豆守利賢の娘を娶ったのは永禄6年(1563)、元親が25歳といわれる。
以来、5男4女をもうけたと伝わっているよ。
長男・孫三郎信親、次男・五郎次郎親和、3男・孫次郎親忠、4男・右衛門太郎盛親、
長女は一条内政室、次女は吉良親実室、3女は佐竹親直室、4女は吉松十左衛門室、
そして5男が右近大夫だと。




84: 人間七七四年 2008/03/12(水) 23:39:15 ID:lVPNVqKq.net

>>81
25歳って、随分嫁をもらうのが遅かったんだな。
今なら40歳くらいの感覚かな?




85: 人間七七四年 2008/03/12(水) 23:52:24 ID:1/PjFXY1.net

>>84
元親の初陣と家督相続が22歳なので当時としては遅いですよね。
また、本山氏との戦いの最中でもありますしね。




86: 人間七七四年 2008/03/13(木) 00:35:44 ID:Fn0BJa6G.net

>>84
元親の正室に関しては年齢から継室なんじゃないかとは言われてるね。
最初の正室は子供生まずに、あるいは最初の数人生んで若くして亡く
なったんじゃないか、と。




82: 人間七七四年 2008/03/12(水) 21:38:43 ID:kYzZVvjD.net

右近大夫が正室腹ってのは見つけないけど、何の史料?




83: 人間七七四年 2008/03/12(水) 23:27:42 ID:1/PjFXY1.net

>>82
81です。誤解を招いた言い方で申し訳なかったです。
これは徳永真一郎氏の採っている説ですが、典拠についてはまた調べてみます。
(司馬遼太郎氏は信親と盛親が正室腹だとしておられますね。)




86: 人間七七四年 2008/03/13(木) 00:35:44 ID:Fn0BJa6G.net

>>83
真面目に言ってると思うからマジレスするけど、どちらにしろそれ小説家。
むろんそんじょそこらの歴史オタよりよほど収集、分析はするだろうけど、
説の正しさや史料への準拠より「フィクション」「作品」としての完成度を
求めるべき人たちの名前をこういう場であげるのは場違いだよ。




88: 人間七七四年 2008/03/13(木) 01:25:01 ID:Fn0BJa6G.net

元親の婚姻に関しては土佐国編年紀事略の永禄六年には「頃年、元親~」
としか記載がない。25歳で結婚と特定しているのはあくまで土佐物語の話。

まぁ俺も信親は正室腹と思うけど、継室と考えれば長女も含めて可能性は
否定できない、て事で一応併記した。




89: 人間七七四年 2008/03/13(木) 01:55:28 ID:R+VNGiCG.net

>>86,88
83ですが、もちろん場違いなのは承知ですよ。
80さんが「夏草の賦」のお話をされていたので作家ベースで語らせていただきました。
諸方に誤解を招いたようですね。申し訳ないです。
元親の婚姻についても然りで、あくまでも「といわれる」「と伝わる」と記したのも
それが正説ではないかも知れないとの理由からです。
重ねてお詫びいたします。

昨今は小説やゲームで長宗我部家にご興味を持たれる方々も増えていますよね。
ですので、貴殿のように史実をあげて解説いただける方はとても貴重な存在かと。
当方も長宗我部関係者として頼りにいたしております。
今後とも何卒よろしくお願いいたします。




90: 人間七七四年 2008/03/19(水) 15:04:56 ID:JmYV9vlx.net

香川の戦国大名や豪族について調べてるんだけど、
寒川氏の居城のうち寅丸館って今現在大きい公園があるあの辺でいいのかね
昼寝城とかはしっかり看板とかあってわかったけど




91: 人間七七四年 2008/03/19(水) 21:25:22 ID:5jAe61tI.net

>>90
虎丸山の麓、別所地区に居館があったと思われるがハッキリとはわからない
「城の内」と呼ばれる地名もあるし、城内と繋がっていたであろう道もあるにはあるけど




92: 人間七七四年 2008/03/19(水) 22:32:35 ID:JmYV9vlx.net

>>91
ありがと、とらまる公園とかいうあたりだと勝手に思い込んでた
引田城とかもいってみたけどあれは江戸時代の遺構だったお




93: 人間七七四年 2008/03/20(木) 03:51:41 ID:RcH4fB5z.net

>>92
引田城も今ひとつ調査されてないんだよねぇ
生駒氏入城以前の状況がよく判らんのよね

落ちてる瓦は生駒時代の物で間違いないそうだ
石垣積みなおしたりすれば何か判ることもありそうだけど




107: 人間七七四年 2008/06/14(土) 21:20:19 ID:NEUkIJNY.net

本能寺の変直後の伊予国のパワーバランスってどんな感じですか?
国力・兵力など。

なんか伊予=河野みたいなイメージ強いけど
その頃にはもう全然支配力なくなってたわけでしょ?

河野家を10として基準にすると

西園寺・金子・来島村上・能島村上とか、どんな規模だったんでしょうか?




108: 人間七七四年 2008/06/14(土) 22:15:07 ID:5gZoi8we.net

詳しい比率は分からんので、とりあえず所属だけ。

西園寺 ――― ギリギリ大友配下だっけ
金子 ―――― 一応長宗我部
来島村上 ―― 羽柴に寝返り済み
能島村上 ―― 毛利だけど半自立

正直、伊予だけの国力差みても意味ないと思うけど。




110: 人間七七四年 2008/06/15(日) 09:24:57 ID:3/jjEmcM.net

それなら、長宗我部が文句無く第一等だろう。
東予は完全に抑え、南予もかなり侵食してる状況だし。
かなり恣意的だけど、長宗我部:河野:西園寺で6:3:1くらいじゃないかな?
これでもまだ後者に補正かけてるくらいだと思うけど。




116: 人間七七四年 2008/06/19(木) 01:38:53 ID:bttSx3tt.net

知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1417233679でも
質問させていただいているのですが
「長宗我部親吉」について、わかる事がありましたら教えて下さい。
「長宗我部一門で、秀吉の四国侵攻で抗戦し、土豪に討ち取られた」以外に
何か伝わっている事績はあるのでしょうか?
また、戸波親清が「親吉」を名乗っているのは何か関係があるのでしょうか?偶然?

実在を疑われる(資料に乏しい)人物なのか
家系図等にもでてくる存在が確実視されている人物なのでしょうか?




117: 人間七七四年 2008/06/20(金) 04:22:16 ID:8JqFO/44.net

>>116
親吉は阿波平定戦で脇城を攻略しているが、それ以外だと四国征伐の時ぐらいなので、
よくわかってないことが多い。
元親の叔父・甥とも言われるが、不明。
元親の叔父とすると生年が兼序死去以前になるから、1585年当時の年齢が80歳頃となり、極めて不自然。
逆に甥とすると、1539年生まれの元親の甥ということは1585年当時に20歳前後となり若すぎてまた不自然。
実在を疑うことは可能だが、では脇城で活躍した人物は誰なのかかを新たに発見しなければ、
親吉の実在を否定する意義は余り無い。
系図に載ってるかどうかは知りたいところだね。

戸波親清が親吉を名乗ったかどうかは不明のはず。確実な文書は見たことがない。
親吉は勇猛だったとされるから、それにあやかって一時名乗ったと考えることはできるので、
その際に混同されるようになった可能性は否めない。さすがにその確率は低いと思うが。
偶然だと思う。
ちなみに親清は元親にとっては従姪(じゅうてつ)に当たるため、
「親吉は元親の甥」という説明に関しては、親吉が親清を指す場合は誤りではない。





120: 人間七七四年 2008/06/20(金) 21:32:37 ID:LzbVV/I1.net

>>117
なるほど。ありがとうございました。
とりあえず、それらしい人物は確認できるが
詳細は不明、って事ですね。

戸波親清同一人物説は低いにせよ、親吉自体は
誰か複数の人物の事績が混同されている可能性も否定できないわけで。
(例えば一門・某の親と子の事績が一緒になっているとか)




118: 人間七七四年 2008/06/20(金) 14:52:28 ID:7UjPdkPV.net

長曾我部家って大阪の陣の時に子供もろども殺されたんちゃうん




119: 人間七七四年 2008/06/20(金) 20:08:48 ID:8JqFO/44.net

>>118
盛親系はその通り。
元親の妾腹の子とされる長宗我部康豊が酒井氏に召し出されて仕えて子孫を残したほか、
吉良親実の子孫である町氏が明治になって長宗我部氏に復したはず。




127: 人間七七四年 2008/07/23(水) 02:30:07 ID:B+psD/qs.net

>>119氏に補足すると、香曽我部親泰の子孫は、最終的には春日局の縁を
頼って堀田氏の重臣となっています。
また、佐竹親直の子(元親の外孫にあたる)は柴田外記で、仙台藩に仕えて
伊達騒動の中心人物のひとりになり、その子孫は船岡城代を世襲。




129: 人間七七四年 2008/07/30(水) 18:25:26 ID:0kuNQbt6.net

一条や西園寺のような公家大名が結構な武力保有してるな、四国って。

信長にあっさりやられた北畠や姉小路よりがんばったともいえる。




132: 人間七七四年 2008/07/31(木) 19:55:20 ID:9kUSqu7r.net

>>129
天正年間に滅んだ姉小路は公家の姉小路とは別物だ。
公家の姉小路は天文~弘治に三木に取って代わられて滅んどる。
北畠も何だかんだ言って藩士として江戸時代にも生き残ってるしな。

逆に一条や西園寺は子孫がなく滅亡してるし、
少なくとも北畠よりは頑張れていないな。




134: 人間七七四年 2008/08/01(金) 01:00:01 ID:3cLOeFp5.net

信長さえいなければもっと長続きしただろうな、と思わせられる北畠
誰が隣国でも勝手に自滅するんだろうな、と思わせられる一条

つーか一条って大名だったなの?




137: 人間七七四年 2008/08/01(金) 19:55:43 ID:BeK1SpL4.net

>>134
名目上長宗我部元親の主君なので、形骸でしかないが一応は大名かと。
大名に含める必要性は無いとは思うが、一応は、ということで。




168: 人間七七四年 2008/11/12(水) 23:48:12 ID:6pF5JibD.net

長宗我部氏の家老
吉田備中守、桑名藤蔵人、福留飛騨守、中嶋大和守、姫倉豊前守、久武肥後守、江村備後守、吉田次郎左衛門、
久武内蔵助、国吉甚左衛門、中嶋右兵衛、桑名丹後守、馬場因幡守、吉田伊賀守、南岡左衛門太夫。

若年寄
久武彦七、桑名弥次兵衛、桑名将監、国吉三郎兵衛、姫倉太郎左衛門、中内源兵衛、江村孫左衛門、野田甚左衛門、
南岡四郎四郎兵衛、山川五郎左衛門、吉田弥右衛門、十市新右衛門、比江山掃部助、桑名太良左衛門、野中三郎左衛門、
横山九郎兵衛、横山三郎左衛門。




181: 人間七七四年 2009/01/25(日) 04:30:41 ID:49B47ata.net

ヤフー知恵袋でも同じ質問をしていますので、御存知の方がいらっしゃいましたら、回答お願いします。

河野通秋について
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1322523158




182: 人間七七四年 2009/01/25(日) 06:34:33 ID:yzMNrbk/.net

>>181
教通の弟(子ではありません)の通秋とは別人ですね。
教通の弟は一時期教通の跡を継ぎましたが教通よりも先に亡くなっていますので、
生年も没年も15世紀の人物になります。

吉見氏の食客として出てきている通秋については私もわかりません。
吉見広頼の娘が河野通直に嫁いでいますので伊予を失った後に
吉見氏を頼った河野一族がいたのかもしれませんが、
萩藩毛利氏の閥閲録にはそれ以前から毛利元就配下で活動している
伊予出自を謳う河野氏もいたようですのでそうした流れの人物の可能性もあるかと。
生没年がはっきりしているようなので、吉見氏関連の史料に詳しく出ているか、
位牌でも現地に残っているのかもしれませんのでその辺の詳細がわかれば
何らかの手がかりになりそうですが。

字が違う河野通昭であれば河野通宣(左京大夫)の子で後に築山氏と改めた系譜がありますが
年代が微妙にあわないように思います。
通昭あるいは宍戸氏から入ったとされる通軌など、竹原で亡くなった通直以後の系譜として
築山本河野家譜に現れる人物についてはどこまで1次史料で確認されているのかは
私も興味があるのですがあまり論じられているものをまだ見たことがありません。

こちらでも質問されるとまた別の情報が得られるのではと思います。
ttp://www.ehime.net/bbs/yuduki/index.html




183: 人間七七四年 2009/01/25(日) 16:03:13 ID:49B47ata.net

>>182
御意見ありがとうございます。
とりあえず、教通の子でないという事がわかっただけでも収穫です。
河野氏の一族が毛利に入っているのは知っていたのですが
河野家没落後に入った連中と、その前から入っていた連中との区別が難しいので
どっちなのかなーと思いまして。
紹介されたリンク先でも聞いてみますね。ありがとうございました。




192: 人間七七四年 2009/03/07(土) 14:48:21 ID:TVcA/kb7.net

私の親の里が香川県の丸亀・旧・鵜足郡(飯野山南西・土器川中流周辺)なのですが、
戦国当時、鵜足郡はどの豪族が治めていたのでしょうか?
香川氏(観音寺周辺)、羽床氏(讃岐中央南部)、奈良氏(宇多津周辺)と考えているのですが、
上記三氏の中間地帯あたりにあるので、イマイチわからず気になったのでカキコさせて貰います。
お詳しい方居られましたらお教え下さい。




274: 人間七七四年 2009/12/14(月) 16:00:51 ID:tm7/d53i.net

>>192
もともと奈良氏は細川氏は鵜足・那珂の2郡をもらっていた。
拠点は宇多津の聖通寺城。
三好政権の時代になると、三好家から課せられた軍役で領内は荒廃、
香川氏の調略と侵攻によって那珂を獲られてしまう。

その後、長宗我部氏の侵攻にあたり、阿波勝瑞へ逃げ、
中富川合戦で数百名の家臣と共に当主も討死。

四国の役の後には仙石氏が入部。
仙石失脚後は生駒親正が入るも、高松に移ったため聖通寺城は廃城。

その他、鵜足の戦国期のマイナー豪族だと、三谷氏、小川氏、高木氏、増田氏、長尾氏など。


ちなみに那珂の丸亀城は元々、奈良氏の支城。




275: 人間七七四年 2009/12/14(月) 16:06:48 ID:tm7/d53i.net

>>274
細川氏は…×
細川氏に…○

失礼しました。




204: 人間七七四年 2009/04/28(火) 13:40:34 ID:BcSEh8KT.net

四国で栄えていたのは瀬戸内でいい?




205: 人間七七四年 2009/04/29(水) 23:14:31 ID:4W/+tLB9.net

大体合ってる




206: 人間七七四年 2009/05/15(金) 17:03:38 ID:MBxl2A71.net

米の収穫量より交易か。




207: 人間七七四年 2009/05/18(月) 02:40:27 ID:Rc29QVE7.net

>>206
別に交易の方が盛んってこともないだろうが、そもそも米がいっぱい取れる平野部も
瀬戸内海側とか吉野川の河口あたりに集中してるといってもいいと思う。




208: 人間七七四年 2009/06/01(月) 17:21:24 ID:uUYfqr0S.net

戦国後期の四国では石高はあんまりステータスにはならないだろうなあ。
河野、三好あたりは交易の利益がかなりあったろうし長宗我部は一領具足で石高以上の強さを持ってただろうし




211: 人間七七四年 2009/06/22(月) 16:57:18 ID:S+ACvaEc.net

米以外の部分も大きいということか。




212: 人間七七四年 2009/07/07(火) 15:01:43 ID:zBmfjz1V.net

細川は交易強いから 三好もそうなんだろうね。




227: 人間七七四年 2009/08/24(月) 20:26:12 ID:OAIKv/fo.net

「西園寺十五将」って呼び名だけはカッコいいよね?
全くと言って良いほど知られてないけどw




230: 人間七七四年 2009/08/25(火) 16:42:49 ID:QbQ8C73b.net

>>227
~四天王、とか
~何人衆とか
~何勇士とか
そういう奴って大概活躍してないよな、まとめてよくやく1つの勢力扱いみたいな




232: 人間七七四年 2009/08/26(水) 02:40:27 ID:dk9zg2rq.net

>>230
仁井田五人衆をなめるなよ!
もちろん「まとめてようやく一つの勢力」だけど・・・w




228: 人間七七四年 2009/08/24(月) 21:03:12 ID:jrwiKVSR.net

必ずしも西園寺に従っていた武将ではないらしいのもイイw




229: 人間七七四年 2009/08/25(火) 02:51:46 ID:fLEsGP9x.net

渡辺教忠は一条房基の三男だったっけ
公家大名同士が隣接していたのなんてこの辺ぐらいだよね?
これは結構すごい




231: 人間七七四年 2009/08/25(火) 19:21:16 ID:F6yOJN0L.net

土佐との国境付近の十五将は、一条家との掛け持ち家臣のようなもんだからなあ。
だから興味深いんだよね、伊予西園寺家は。マイナー大名にしとくのは勿体無い。




287: 人間七七四年 2009/12/16(水) 19:56:26 ID:gFYiYBIZ.net

三好氏の末裔といえば伊吹島だけど
香川氏の末裔は土佐に土地もらった後どこにいってどうなったのか




288: 人間七七四年 2009/12/17(木) 17:02:08 ID:/Z7HVDuh.net

>>287
戸次川で戦死という説もありますが、おそらくそういう記録が無いのでガセかと。
肥後で死んだというのもありますが、「なぜ肥後に?」となりますね。
あと、満濃のあたりに住んで、子孫は医師になったというのもあります。

塩江の豪族川田氏も香川の傍系だという系図になっていますが、
これもかなり怪しいですね。途中で通字がおかしい人が出てきます。

おそらく、阿波の川田から来た豪族がなんらか香川氏と血縁をもったか、
後世に偽造したかのどちらかではないかと思われます。
香川の末孫と名乗る家は多数ありますしね。

ただ、香川氏の家系図はすでに戦国以前にも色々な系図があり、(もっと言えば鎌倉氏もそうですが)
また、通字の「景」と偏倚を合わせたものが多いので、どの人物がいつこの名を名乗ったのか…など
これまた不明なことばかりです。

昔、どこかの歴史掲示板で子孫と名乗る方が書き込みしておりましたが、これも真偽は不明です。

個人的には土佐でそのまま無死んだか、上記の満濃説がまだ「らしい」かなとは思いますが、
確証はまったくありません。




290: 人間七七四年 2009/12/17(木) 19:00:10 ID:aTk9LKkw.net

>>288
讃岐の南端にいたのは本当としても分家の者じゃないかと思う。
長宗我部が引き取るにしても家臣団まるまるというわけにはいかないだろうし、途中で脱落したのかも。
家臣たちは一旦土佐に行ったものの政治的な事情か知らんがまた讃岐に戻ったとかいう話も。
宗家は所領を与えられたから長宗我部の統治時代は土佐にいただろうがその後はどうなったんだろうか




291: 人間七七四年 2009/12/18(金) 01:06:52 ID:2HYZAIJQ.net

>>290
家老の河田と三野は生駒から知行を得てますね。

信景自身は正直不明としかいいようがありませんね。。

ただ土佐に当てがないのなら讃岐に帰るほうが妥当かと思います。

もしくは岩国の安芸香川氏を頼ったということも考えられなくはありませんね。

信景自身、毛利とも友好を結んでたふしがありますので。




292: 人間七七四年 2009/12/18(金) 01:17:35 ID:LEn3XZbT.net

>>291
香川宗家のことが書かれた土佐藩の史料ってないのかね…
陪臣になるなり郷士になるなり




294: 人間七七四年 2009/12/20(日) 03:10:58 ID:OF8RZW9/.net

>>292
香川傍系の一族は土佐の森郷に移り住んでいたという伝承があります。
そういった所を頼ったのかもしれませんね。




296: 人間七七四年 2009/12/20(日) 10:33:08 ID:sEWaxAKe.net

>>294
土佐国森郷は親の故郷です
香川傍系の苗字なりが判れば調べますよ




297: 人間七七四年 2009/12/20(日) 12:55:32 ID:OF8RZW9/.net

>>296
ちょっとググってみたんだけど
これのことじゃないかな?

川田景村
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%B0%E6%AF%E6%9D%91

床鍋の森
http://www.reihoku-k.jp/kyoboku/tosa/36.html

けどまたなんで讃岐から土佐へ行ったんだろう。
なんか和田氏の一族とかもあのへんに移り住んでいたよね。>森郷
細川氏の命令か何かだろうか。
てか森郷の領主って森氏だっけ?
山内時代はどうなったの?




298: 人間七七四年 2009/12/20(日) 17:54:12 ID:w9XGYuAq.net

>>297
土佐に行ったのは香川氏が早々に長宗我部氏に下って同盟者として四国統一に関わってたので
秀吉の四国攻めの結果退去させられたから。この頃には細川氏の影響力は消えている。
長宗我部と同盟したのは単に攻められて持ちこたえられなかったというのもあるだろうが、
永正時代の細川政元の養子の後継者争いの頃から続く阿波勢力・三好氏との確執も大きいだろう




299: 人間七七四年 2009/12/20(日) 21:25:01 ID:oIRLKg4B.net

>>298の話は川田氏についてだろうから、土佐に行ったのは細川氏との関係?っていうのはごくごく普通な考えでは。

土佐は京から遠いし、細川家だと当主はほぼ在京、いろいろ大変な面もあったんだろうなと。
守護代(又守護代)の力が強くなりすぎないように在地の土豪と競わせるような
手を打っていたのでは、という趣旨の論文も読んだ記憶がある。




301: 人間七七四年 2009/12/21(月) 12:28:43 ID:7rRUZTpt.net

>>297
川田氏が何故に土佐の森郷へ来住したのか詳細は不明ですが、
他の方のおっしゃるような理由が主因なのでしょうね。
天正15年の地検帳には森郷の相川名(現在の土佐郡土佐町相川)に
川田染衛門はじめ川田一族の名が見えます。また床鍋の森にある
川田氏が勧請と伝わる河内神社には文亀2年と文禄5年の棟札が
あるとの事です。もちろん現在でも当地一帯に川田姓の家があります。

森郷和田村の和田氏は和田義盛あるいはその弟の後裔といい、応永
初めに讃岐を経て来住といいます。越後守義宗の代に北隣の本川郷に
移り、子の義清は長宗我部氏に仕えて本川五党に数えられました。
天正15年の森村地検帳の和田名に和田氏の名が見当たらないのは
既に本川郷に移住していたからかも知れませんね。
ちなみに和田氏は今でも土佐町地域では結構ポピュラーな苗字です。

また、森郷領主の森氏ですが、6代・森頼清が豊後戸次川で戦死、その
子孫は長宗我部氏没落と共に現在の高知市瀬戸で帰農したようです。
山内藩政時代の森郷は中心地の土居に大庄屋、諸村には名本が置かれ
ました。幕末近くまで大庄屋は和田氏が勤めたようですよ。

以上、ご参考になりましたら幸いです。




303: 人間七七四年 2009/12/22(火) 05:39:12 ID:pA1507n9.net

>>301

いやーすごいですね。歴史って。

けど川田氏がなぜに土佐の森にいったかは不明ですね。。





304: 人間七七四年 2009/12/22(火) 05:46:43 ID:pA1507n9.net

てか森さんまで戸次川で戦死とは…


仙石、まじでイラつくわ。


自分のことだけ考えて小田原で復帰とは。




305: 301 2009/12/22(火) 14:39:08 ID:xAOgP1Ex.net

>>303,304
川田七兵衛の森郷来住が文明年間といわれているので
応仁の乱の波及で・・・とも考えられる位で詳細な理由までは???です。

仙石には全くもって同感です。
我がご先祖も戸次川では家臣を失っておりますので。




306: 人間七七四年 2009/12/22(火) 15:28:37 ID:pA1507n9.net

>>305
森城って今もなにか残っているのですか?
今度、本山城に行こうと思っているので、ついでに行けたらいいなと思ってます。
東京人なもので地理に疎いのですが、今は昔と違い、高速が通って行きやすくなったみたいですね。




308: 305 2009/12/23(水) 23:26:26 ID:4Ri8qVXi.net

>>306
森城については森氏ご子孫の方も行かれたようですね。
      ↓
http://www2.plala.or.jp/tyosokabe/shiseki001.html

本山から行かれるのでしたら、国道439号を車で15分も走れば土佐町土居です。
国道から右手に土居の集落が見えたら、その左手の山が城跡です。
花瀬山といわれる山で、その中腹には私の先祖の墓もあるので時々行きました。
旧地名に「城山」等は残るものの、切り崩されて植林されています。
土佐町の調査でも遺構は確認されていないようですよ。
森氏の菩提寺・鏡峯寺は土居集落の北東側に残っています。(新しい建物ですが。)
それから長宗我部氏没落後の森氏の詳細ですが、戸次川で戦死した頼清の子の
頼国は山内一豊の土佐入国で巡検使となった山内内記から仕官を勧められました。
しかし頼国の母がこれを固辞、頼国は森喜右衛門と改名して浪人になったとも
天保9年の森郷郷士・森綱次郎の先祖書指出に記されていました。

和田氏の城跡でしたら、土塁や堀切が現存していますよ。
行かれる際には土居から南越トンネルを通って早明浦ダム湖岸経由で和田の集落、
和田小学校を目指して下さい。和田氏が鎌倉から勧請したという子守神社を挟んで
本城と西城があります。本城には和田若狭守の墓もありましたよ。

上記が土佐町域の比較的判り易い城跡です。国道部分はかなり整備されて楽に
なりましたが、それ以外の道は林道並みなので走行にはご注意下さいね。
行かれる前に土佐町教育委員会にも確認しておいたほうがよいかと思います。

また、私が本山城に行った時は公民館(コミュニィティセンター)に駐車させて
もらいました。近くには東光寺があり、本山攻防戦での長宗我部側戦死者を供養
してありますので、立ち寄られてみては?
本山氏最後の抵抗地・瓜生野への道も結構な林道区間がありますので、行かれる
のでしたら充分にご注意下さいまし。






314: 311 2009/12/26(土) 19:34:41 ID:vlGSZpoL.net

川田氏についてですが、床鍋の森や八幡の杉、>>301の内容など、
讃岐から来たよそ者にしては、森一帯に結構な土地を持っていたようですね。
これが不思議でなりません。讃岐でもそこまで強大な勢力ではないので、、
いきなり召しかかられたよそ者が、数代で多くの知行を貰っていたら
他の家臣や在地の有力者なども納得しないと思います。
やはり、ここは森氏傘下の「部将」としてではなく
技術などを通じた職人的な位置づけだったと考えるほうが自然な気がしますね。
とくに城なども持っていた形跡もなさそうですし。

滝山についての詳細、ありがとうございます。本当に助かります。
また、友人の方の繋がりなども聞けてよかったです(笑
あと、土佐藩では長宗我部遺臣が郷士になったと聞きますが
あの辺一帯の在地の豪族、有力者、上記の森氏、本山氏やその旧臣などで帰農していない家は
ほとんどが郷士となったのでしょうか。




316: 313 2009/12/27(日) 23:18:57 ID:Z9eSbT3u.net

>>314
これはまた、ご丁寧に。

山野内氏の改姓はご指摘通り山内家への憚りからという説と
土佐藩側の意向からという説があります。
森郷の近隣の本川郷に割拠した本川五党が和田氏・筒井氏・
伊藤氏・中ノ内氏・山内氏で、そのうち山内氏は前述の山野内氏の
事、あるいは同族と考えられ、土佐藩主・山内氏と同祖ともいいます。
こちらも土佐藩の意向により山中に改めたといわれていますね。

川田氏については私も前述のように材木関連に明るかったのでは
ないかと思っています。おっしゃるように「部将」というよりも職能を
もって森氏に仕えたのでしょうね。
土佐町宮古野にある森郷の白髪神社ですが、それ以前に森氏が
近江国から土佐入国の際に最初に勧請した地は本山郷(本山町)の
白髪山。ここは江戸期には土佐藩の御用材木の御留山となり、檜等
を伐り出して吉野川を利用して阿波経由で大坂まで搬出された地でも
あります。もちろんそれ以前からそのルートは利用されていたでしょう。
となると、材木資源にも注目していた森氏と搬出経路にあたる阿波の
川田氏との関係も想像に難くないですよね。その縁で川田氏が森氏に
招請されたのではないかと考えられるのですが如何でしょうか。

森郷や本山郷の在地土豪も長宗我部時代にはその傘下となった訳で、
かつては対立していた本山氏も長宗我部家臣となっていますよね。
長宗我部氏没落時に森氏のように在地を離れた者もいるようです。
残った者ですが、本山采女の系統は土佐藩の参勤交代経路の立川
上名(大豊町)の番所の道番と庄屋を兼ねたり、同じく立川下名の庄屋
と番所道番は在地土豪の川井氏、その他の者も村役人や庄屋、上層
農民になっていますね。
ご存知のように郷士という身分は土佐藩に取り立てられてなるもので、
江戸初期には長宗我部遺臣ばかりでしたが、遺臣の全てが郷士になった
という事ではありません。これは森郷等にも当てはまる事です。
郷士は随時募集されましたが、郷士株を売買できた時期もあり、先祖が
士分でなくても郷士になった者もいます。逆に郷士でなくなった者も
あります。幕末に郷士だった者は藩全体で1,000名余りです。
その中で森郷の者を全て確認していませんが、在地土豪の子孫で庄屋や
上層農民だった者は他の郷と同様に郷士格の者となっていたでしょうね。
ちなみに森氏の重臣だった波越(なみお)氏はやはり戸次川で戦死、
子孫は幕末の土佐勤皇党に加盟していており、今でも町内に波越姓は
残っています。

都会でも地方でも歴史的遺構は時の波に呑みこまれたかのように消えて
しまって寂しい限りですよね・・・。







293: 人間七七四年 2009/12/18(金) 18:20:47 ID:Hwmkh8k0.net

信景と分家の者など一部の家臣が土佐へ
長曽我部の後継者争いか山内の支配か何かの影響で土佐にいられなくなる
讃岐に戻ろうとするも生駒氏の支配体制は確立してて居場所はない
仕方なく讃岐や阿波の山奥に定住
ってところかね







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