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みちのく瓦版

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戦国時代の南部氏について語り合おう その1

nannbu

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/09(土) 07:45:37 ID:NrwtRgtk.net
三日月が丸くなるまで南部領

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/26(火) 23:55:12 ID:ov76MQ1C.net
晴政・安信以前の宗家の系譜で、各当主の事績とか列伝についての正確なことは
よく分かってないことが多いらしいな。南北朝から戦国初期まで、ってことは
室町時代として認識される時期ずっと、か。戦国時代に戦火で記録が消失した
ことと、分家に圧倒されてたことが影響として大きいらしいが。

ってことは、強力なリーダーシップを持った晴政が現れなければ、四分五裂を
起こす危険性があって危なかったな。特に南部は家臣の多くを一門が占めてた
みたいだから、すげー危険な状態だったと思う

16: 名無しさん@お腹いっぱい 2006/09/27(水) 10:44:05 ID:tsC8p0S9.net
八戸根城の根は根本の根で、
あそこが宗家ではなかったかという話を聞いたことあるが、
どうなんだろう。
後に遠野に移らされた南部だけど。

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/02(月) 20:42:19 ID:M5EMCBsG.net
>>16
>八戸根城の根は根本の根で、
糠部に根を張る拠点に…、だから根城。

>あそこが宗家ではなかったかという話を聞いたことあるが、
どうなんだろう。
三戸南部晴政が台頭するまでは間違いなく根城南部家が宗家でした。

最近の郷土史研究では、南部家の本家は根城南部家との説が有力かも。



17: 名無しさん@お腹いっぱい 2006/09/27(水) 10:49:35 ID:o+/dKYI1.net
煎餅は美味いな

18: 名無しさん@お腹いっぱい 2006/09/27(水) 10:55:54 ID:tsC8p0S9.net
伝説によるとあれは長慶天皇に捧げたものらしいね。
ゴマがいっぱいのやつが好き!
今や青森名物の一つで、津軽衆がいろいろ売ってるけどさ。
やっぱ津軽衆はちゃっかりしてるね

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/27(水) 18:35:39 ID:HILOTz7J.net
なんにもついてない白い煎餅に蜂蜜塗って食べると
おいしいよ ちょっとビンボくさいけど

20: 名無しさん@お腹いっぱい 2006/09/27(水) 21:21:33 ID:tsC8p0S9.net
もとは蜂蜜ではなくて、飴だよ、水飴。
う~~んと昔、神社とかの夜店で売ってたな~~(スマソ年食ってて)
青森名物のねぶたの絵の付いた缶に入ってる水飴を割り箸でくるくるして
それを南部せんべいに載せるというか付けて食べるんだよ。
おいしよ。
南部と津軽の合体か? 南部気分わるいかな。

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/08(日) 17:39:09 ID:uURbkzSO.net
>>強力なリーダーシップを持った晴政が現れなければ
戦闘政治は叔父の高信にまかせきり
晴政は自分では何もしていない

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/08(日) 23:54:51 ID:4rhDcjo2.net
晴政の功績・・・一門の武将を纏めて統率。
一門の頭領なんて統率力が有れば、人材を適材適所に置けば治まる。

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/09(月) 01:45:28 ID:e5RzKstw.net
その点、甲斐武田氏と似てるよね

36: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/08(金) 21:51:40 ID:UYfda/RI.net
嫌になるほどの山地の上やませが来て
未だに満足に米を作付けできているわけでないからなあ。県北はタバコ畑がずいぶんある。
商品作物の発想は江戸期にもあまり南部には入らなかったっぽいので
大変だったろうな。

ゲームでの南部エースといえばやはり北(南部)信愛かな。
彼一人居るおかげで進行がどれほど楽になっているか。
寿命が長いのも見逃せない好ポイント。

59: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/06(火) 18:35:42 ID:cjpK3C3s.net
大坂の陣で豊臣方に味方した北信景カワイソス

60: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/10(土) 01:37:49 ID:1K+CgGOe.net
南部の光り武者と言われた人か…

75: 人間七七四年 2007/03/13(火) 12:16:52 ID:PDGJzUSe.net
北信愛の二番目の息子の馬鹿さ加減について

77: 人間七七四年 2007/03/14(水) 00:02:47 ID:WcF8mguO.net
>>75
kwsk

78: 人間七七四年 2007/03/15(木) 18:46:42 ID:3jreOnUV.net
北定愛(きた さだちか、生年不詳 - 1634年(寛永11年))は戦国時代の武将で南部氏家臣。北愛一とも言う。北信愛の後妻の子。異母兄に北愛清、同母弟に北秀愛、北直継、北愛邦がいる。子は北直愛。

信愛の子の中では一番無能であったらしく、『参考諸家系図』には「信直公の時父の功を持って(中略)二千五十石を給う」とある。また、異母兄北愛清と家督を巡って争っていたが、父信愛は、当初から
愛清を後継者に定めていたので、定愛の一人相撲であった。大館城代の時安東氏との戦いの最中に異母兄愛清を罠にはめ安東氏の捕虜にさせるなどの行いをしたために信愛に勘当される事態となった。異母
兄愛清の嫡子三戸清乗が信愛の後継者に正式に定められた後は、南部利直の娘を自分の子北直愛の嫁に迎え南部氏の閨閥として、清乗と北氏の家督を争ったが、北家譜代家臣の支持を得られず北家の家督を
あきらめる事態となった。その後、定愛の家系は、主流になれず、直継の家系が南氏系北氏の主流になっていく。

うぃき抜粋

79: 人間七七四年 2007/03/18(日) 10:20:29 ID:TuXTHoq0.net
かなり「愛」にこだわっているのに直江兼次ほど有名じゃないな

80: 人間七七四年 2007/03/19(月) 16:58:00 ID:Z+Jkd/Zx.net
そりゃ某漫画になっていないから。

それはともかく定愛は人望がないだけで、
かなりの謀略野心の武将という感じがする。

81: 人間七七四年 2007/03/29(木) 22:29:45 ID:dRuJxOPm.net
北信景はあまり知られていないよね
光り武者なのに

89: 人間七七四年 2007/06/05(火) 10:44:43 ID:Z5sot9Ey.net
晴継公が存命なされた場合、現在の廃藩置県はいかに?津軽は独立出来たのか?九戸七戸もどーなってたんだろうね

92: 人間七七四年 2007/06/06(水) 18:31:34 ID:BnYtRTXG.net
>>89
もともと津軽の豪族は独立しているんだよ。
三戸の傘下に入っていたわけじゃない。
南部家は豪族の連合体。
それと津軽家は津軽だけじゃなく
糠部の豪族を滅ぼして領土にしている(堤、七戸)

93: 人間七七四年 2007/06/06(水) 18:42:36 ID:BnYtRTXG.net
>>92
三戸の主張が認められたどうかということだよ
三戸の主張は糠部五郡の南部領は三戸のものであり
九戸、七戸、大浦は家臣であり大浦は謀反を起こした。というもの

90: 人間七七四年 2007/06/05(火) 10:52:51 ID:wd+qLQzn.net
晴継が存命でも津軽の独立には影響ないだろうね。
九戸は滅亡せずに済んだかも知らんが。

97: 人間七七四年 2007/06/09(土) 04:33:01 ID:hPv2VUwM.net
北十左衛門といえば山芋と白根金山。
この人は北家の家督を継いだわけじゃなかったのか。

98: 人間七七四年 2007/06/09(土) 12:21:22 ID:IT7r3ga0.net
十左衛門は赤石から剣吉さ行った養子だべ。
わかるよね?(地名)

105: 人間七七四年 2007/08/06(月) 13:39:58 ID:6tIwT/eZ.net
島津と南部、相馬は幕末まで残った大名としては
家系の古さがすごいよ。奇跡だね。

106: 人間七七四年 2007/08/06(月) 13:41:16 ID:6tIwT/eZ.net
南部も島津と同様「辺境」を支配してたことが大きいと思う。

127: 人間七七四年 2007/08/25(土) 21:27:20 ID:vOvHGdvt.net
南部系の家の末路
大光寺→大浦によって滅亡
七戸→九戸の乱で滅亡
八戸→晴政にクーデターをおこされ属国化
九戸→九戸の乱で滅亡
千徳→大浦によって滅亡
堤→大浦によって滅亡
久慈→九戸の乱で滅亡
三戸→数多くある南部系の家の一つに過ぎなかったが秀吉に大名として認められる
大浦→数多くある南部系の家の一つに過ぎなかったが同じ南部系の家や北畠をつぶしていき秀吉に大名として認められる。なお直径は断絶する。

128: 人間七七四年 2007/08/25(土) 21:35:36 ID:vOvHGdvt.net
>>127
南部晴政が自由に動かすことが出来たのは三戸だけで
他の南部の家々は自由に好き勝手してたんだろうな
信玄や謙信のように他の豪族に干渉したり指示したりなんて出来るほど
影響力はなかったんだろう
三戸南部が上に建てるようになるのは太閤検地からか

129: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/08/26(日) 00:13:44 ID:ozNcH+iL.net
以前他スレでも書いたけど、信直は三戸南部に分類するべきじゃないと思う。

130: 人間七七四年 2007/08/26(日) 18:10:32 ID:eHP7BixA.net
鹿角奪還での諸豪族の篭絡とか信直の強制擁立とか、北信愛ってかなりの豪腕だな
こいついなかったら、南部は芦名みたいに零落してたかもしれないし
関が原で稗貫・和賀を落とされていたかもしれないし
評価的にはどのくらいなんだろ?

131: 人間七七四年 2007/08/29(水) 12:01:52 ID:v4vMmaFG.net
このときの南部家って
細川の吉兆と長岡のように
分家と宗家の関係にあったけど
主従関係にはなかったんでしょ

137: 人間七七四年 2007/10/05(金) 05:02:46 ID:h1d1YOr2.net
晴政時代の優れた南部家の武将って大浦為信、石川高信、北信愛以外に
いるの?信長の野望で急速な領土拡大に成功した割に人材がいない
から登録で作ろうと思っているんだけど、散々探してもろくなのがいない・・・

139: 人間七七四年 2007/10/06(土) 08:21:27 ID:UK2kIuf/.net
一門&譜代衆を登録すればいいだろうよ。
南・石亀・毛馬内・楢山・野沢・奥瀬・櫻庭とか

140: 人間七七四年 2007/10/06(土) 14:52:19 ID:LCRpSNZT.net
>>139
それらは南部系の家の一つである
三戸南部の譜代にすぎない

144: 人間七七四年 2007/10/26(金) 14:27:09 ID:Hbwhsq3A.net
八戸南部は南北朝期までは主導権握っていたんだけどね。

145: 人間七七四年 2007/10/30(火) 02:55:29 ID:Rsko1xuu.net
いまいち戦国時代後期、というか安土桃山時代以前の南部氏が良くわからん。
こういう理解で良いのか?

南北朝から戦国時代まで
宗家・八戸(根城)南部

戦国時代後期
三戸南部晴政
宗家を倒し宗家化
(八戸の分家?)

田子南部信直
(三戸の分家?というかそもそも南部一族なのか?
一族だとしても家中の主導権をとりたかった北にまつりあげられた傀儡?

でもって
津軽為信
(南部の分家の出、三戸の?八戸の?
三戸の晴政には従ってたようなので南部家中の反信直派?)

九戸政実
(南部一族では無いが南部家を筆頭とした豪族連合の中で力をつけた豪族?
晴政には従ってた(協力していた?)みたいなので反信直派か?)

146: 人間七七四年 2007/10/30(火) 15:32:46 ID:R1BhFWYB.net
>>145 ある本の受け売りだと最初に断りつつ

>宗家・八戸(根城)南部
三戸南部は晴政の時の三戸城放火及び寛永年間の盛岡城炎上で、中世史料が殆ど失われ、動向が判然としないようだ
対して八戸南部には多くの中世文書が残された
それはそれとして、
鎌倉期…鎌倉にいた後の三戸が宗家、後の八戸は甲州にいた庶子家
南北朝期・・・八戸が南朝方として活躍、三戸は鎌倉方→南朝方→北朝方に転向、八戸が主導権
応永年間・・・三戸が安東氏との合戦の折、八戸に出兵を命令、三戸が主、八戸が従の関係に・・・以後略

以下血筋のみについて
>田子南部信直
石川高信の子(高信は三戸晴政の父安信の弟)

>津軽為信
南部の分家説(三戸守行の子孫)説もあるが?、他に平泉藤原氏説、大浦光信以前不明、などがある

>九戸政実
始祖南部光行の子行連の子孫(手持ちの本に系図は載っていないが)、一族の大身

158: 人間七七四年 2007/11/11(日) 06:43:44 ID:KuuBQbwl.net
>>145
為信は久慈の出身。
晴政にしたがっていた七戸南部の領土を奪い取っているから
反信直どころか、織田信長のように他の同族の領土を
全部自分のものにしようとしていたと思われる
秀吉によってタイムオーバーになってしまったが

166: 人間七七四年 2007/11/14(水) 16:51:22 ID:dzU7s3eI.net
信長公記に出てくる「奥州津軽の南部氏より南部宮内少輔が鷹五匹を進上してきた。」
この「津軽の南部氏」って大浦のことだよな

169: 人間七七四年 2007/11/21(水) 16:04:11 ID:ynMHCPsh.net
安東家臣の南部季賢説もあるね
晴政、信直説も

173: 人間七七四年 2007/12/10(月) 13:57:25 ID:GwoOzmVF.net
晴政在世中の出来事といえば
安東に鹿角郡を奪われるも奪回
津軽地方の反乱を平定
九戸政実の反乱騒動を平定 ぐらいかな。
石川高信・信直 八戸政栄 九戸政実の功績が大きいといえば それまでですが。

174: 人間七七四年 2007/12/12(水) 16:27:29 ID:ZrPYDRi8.net
安東に鹿角郡を奪われるも奪回
津軽地方の反乱を平定
九戸政実の反乱騒動を平定

九戸は晴政死後でしょ
三戸南部は津軽に領土などもっていない
津軽に領土を持っていたのは大光寺とか千徳である
反乱を鎮圧したのは大光寺でしょ

175: 人間七七四年 2007/12/13(木) 03:37:57 ID:LPZK34Kh.net
晴政の事跡があまりかかれていないのも当然

晴政の家系は滅んでいるから
それと大火事で記録が燃えてしまったから
残っているものと言えば晴政と仲が悪かった
家系が記した書類だけ。

まあ南部だけではないが
そういった文献あ割り引いて考えた方がいい

例えば本当は晴政が行った業績なのに別な人の手柄にされているかも

176: 人間七七四年 2007/12/14(金) 13:13:56 ID:/Ikop7r3.net
一次資料がすくないのが問題なんだよね
実際何があったのか永久に闇の中

209: 人間七七四年 2008/06/12(木) 14:50:53 ID:U8ayXMtm.net
天文八年の三戸城焼失で殆ど史料を失ってしまってからね、三戸は

177: 人間七七四年 2007/12/21(金) 12:44:21 ID:h5jUf+Pz.net
南部家
同族同士の仲は扇谷上杉と山内上杉のように良好であり
分家の統制は大崎・最上間のように強力であり
豪族、国人の統制力は政豊時代の山名のように強力である

180: 人間七七四年 2007/12/27(木) 14:28:17 ID:UmL847pS.net
>>177
秀吉の奥州征伐までは南部家もそんな感じだったんだろう

183: 人間七七四年 2008/02/15(金) 15:44:36 ID:xk7PH7JT.net
後継者争いがなければ安東ごとき・・・

185: 人間七七四年 2008/02/18(月) 16:57:03 ID:JkN6UL6G.net
南部信直を補佐した三戸南部の守護神!
北信愛90歳。

三好長慶と同じ歳に生まれ北信愛の死の2年後に豊臣秀頼が死亡。
なにげに戦国の一番おいしい時期をガッツリ生き抜いている辞典みたいな男。

186: 人間七七四年 2008/02/18(月) 17:36:29 ID:ATxGLWAt.net
天を衝くの政実のかっこよさは異常

188: 人間七七四年 2008/02/19(火) 15:27:43 ID:Rso73I7S.net
南部氏に滅ぼされた家の末裔な俺が来ましたよ

確かに東北では強かった部類の大名なのはわかるが信長の野望で優遇されすぎじゃね?
特に天翔記、気付いたら東日本一円南部領ってどんだけwwwwwww
三日月が五回は丸くなるまで南部領って感じじゃんか

189: 人間七七四年 2008/02/19(火) 15:48:25 ID:W/44v0jr.net
>>188
三日月が五回は丸くなるまで南部領って感じじゃんか

チョットワロタw

211: 人間七七四年 2008/06/30(月) 06:39:52 ID:So7fdM0Q.net
晴政が所領を急拡大させたってのは嘘なのかな

212: 人間七七四年 2008/07/01(火) 23:10:10 ID:0kyuDXCA.net
実際に戦で勝利を重ねていたのは九戸政実だった。
領民にも支持されていたが、軍事部門的な要員だったと思う。
九戸家の祖先が小笠原を系統としても南部家と祖先で繋がりがあったという、
恐らくは遠戚同士の軍団が南部の基礎で、次いで信直や北信愛のような武将が
南部宗家を乗っ取ったと言える。九戸政実が室町幕府で晴政と同格に扱われていたとすると、
幕府の方で彼の系図がなんらかの形で明確にされていたのだろう。
年齢についても若干の諸説があるらしい。当時の政実元服が15歳でなく12・13歳でされていた場合は
生年が少し遡る事になるからだ。


213: 奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/07/02(水) 00:36:09 ID:x9m6zLvr.net
石川や石亀だって頑張った。

214: 人間七七四年 2008/07/02(水) 03:04:37 ID:9xMeYvov.net
晴政でさえ信直に攻められて殺されたなんて言われるぐらいなのに
この一族ほど謎に満ちた大名家も珍しいな

215: 人間七七四年 2008/07/02(水) 16:05:24 ID:sMRNi0Fj.net
実際に晴政の嫡男が生まれた後、晴政と信直確執が表面化し戦を交えている。
南部抗争には10年のズレがあると言われているが、大浦為信の独立化も南部信直・北信愛に対して
敢行したものであれば、九戸政実と遠戚でもある大浦為信はそれによる呼応であったと思われる。

九戸政実自身は元来晴政の嫡男晴継の後見人であった為、晴政・晴継を暗殺する必要はそもそも無い。
晴政と戦を交えた信直・北信愛側は九戸政実の着々と進む縁戚化を恐れて和解後晴政・晴継を暗殺したと言えるだろう。
また、九戸乱後各地に散った九戸側の一部武士は津軽家に仕官したのではないかと思われる。
その後津軽家でお家騒動が何度か起るが、津軽のそうした彼らが熊千代側に付いたりして、
津軽藩が一時瓦解する状況に陥ったのではないかと私は推測する。
信牧の後継騒動(三成娘の子・満天姫の子)はまさに秀吉側の血縁者に対する
一部津軽・九戸側の猛烈な反発があったのではないか、
熊千代時もそうだがそれらのお家騒動のいきさつ等を経て現在まで至っていると考える。
黒石藩の流れもまさにそうだろう。

216: 人間七七四年 2008/07/02(水) 17:21:36 ID:sMRNi0Fj.net
石川高信の死も諸説あるな。
南部家は信直よりも利直の方が器としてあると感じる。
北信愛の長寿は皮肉すぎる。

秀吉軍の北条氏攻めでの八王子城撫で切りも凄まじいが、
九戸城の撫で切り(二の丸大量焼殺)もひどすぎるな。

217: 人間七七四年 2008/07/02(水) 17:38:01 ID:u6t01X23.net
南部利直って前田利家が利をあげて後ろ盾になってるんだろ。
八王子城なんかも利家が攻めてる。一向宗殺戮とかやってるし。
あいつ撫で斬り大好きな極悪人だよなw

226: 人間七七四年 2008/09/03(水) 11:15:36 ID:0+LV7f57.net
石川高信、九戸政実が死んでからはまともに戦で勝ってない気がする。まぁ秀吉のせいでもあるが。
斯波だって和賀だってたいして強くなかった。
鹿角一帯だって津軽、安東と睨み合いに近いし。最終的には安東だけど。
津軽が南部家臣だったら九戸と組んで葛西領、鹿角一帯くらいまでは南部領地だったと思う。
軍事部門では石川、九戸はかなり優秀なのでは??
ただ南部には政治部門で人がいなかったなぁと感じる。

227: 人間七七四年 2008/09/03(水) 13:01:36 ID:RGznkm6T.net
>>226
葛西とは大昔からやりあったりしてたが、
結局南部の影響力が低下して、葛西と戦うこともなくなっていった
葛西や大崎なんてgdgdの代表格だが、外の敵には比較的団結して戦うしね

904: 人間七七四年 2015/07/17(金) 06:49:31.23 ID:mFTxq58A.net
>>227

> 葛西や大崎なんてgdgdの代表格だが、外の敵には比較的団結して戦うしね

アウェイでは弱いが、ホームゲームには強いんだっけ?

228: 人間七七四年 2008/09/03(水) 14:50:32 ID:22smPN7g.net
南部は政治・経済が弱いからなあ。

229: 人間七七四年 2008/09/03(水) 14:57:51 ID:0+LV7f57.net
悪政のオンパレードな気がするし。三閉伊一揆なんか日本最大級でしょ??
余程の人材不足。北信愛は普通レベルだな。
せめて明智光秀クラスの統治ができる将が居ればなぁ。

230: 人間七七四年 2008/09/03(水) 15:23:02 ID:tUuGUHFa.net
>>229
せめてのレベルが高い件

231: 人間七七四年 2008/09/03(水) 16:11:13 ID:0+LV7f57.net
>>229ですが、貧乏でだだっ広い国だからせめて光秀くらいじゃないとうまく統治できないと思うんですよ。
蒲生氏郷とか。

232: 人間七七四年 2008/09/03(水) 19:04:05 ID:YDKcF8iA.net
図式としては、
九戸政実・南部晴政VS北信愛・石川信直
大浦為信VS石川信直(石川家の仇)
七戸家国・櫛引清長VS八戸政栄
八戸政栄は当初晴政を支持していたが最終的に北信愛の調略に乗る
晴政と信直の戦後信直は田子家に蟄居、その後石川家を大浦為信が攻める
七戸家は大浦為信と揉めていたが九戸政実の下では協力を一致させたが八戸家はそれを拒んだのだろう

233: 人間七七四年 2008/09/03(水) 19:10:35 ID:YDKcF8iA.net
光秀は波多野家攻略の時も懐柔な策を用いていたから、もし光秀のような者が対九戸として陣取っていれば、
撫で切りのような事は回避できただろう。

蒲生氏郷では秀吉に意見する力としては年齢差的にも不足だったろう。
蒲生・秀次が望んで大量虐殺をするとは思えにくいが責任は重大である。
蒲生自身秀吉に謁見するよう前後して要請を受けていたからな。自身の保身も胃癌の病の他にかなり危ぶまれていた筈だ。

234: 人間七七四年 2008/09/04(木) 03:03:06 ID:MNp38drM.net
光秀のようなキレ者が南部家に仕えるわけがない。

というか南部家は人材登用システムがダメでしょ。

236: 人間七七四年 2008/09/04(木) 14:12:47 ID:dR3z1e1z.net
上層部が無能で無害な人ばっかりだったから
徳川家から警戒されずにすんだ、ってのは怪我の巧妙か?

238: 人間七七四年 2008/09/05(金) 16:04:17 ID:kdzb1HqM.net
江戸時代以降の南部家は八戸南部の弱体化とその吸収と同時に血縁関係の無い藩士の粛清と強化に力を注いでいる。
外部からの意見を取り込めないようにしていたとも言える。

津軽家も諸問題を抱える事になる。大本を辿ると、津軽為信の嫡男信建は早逝し、三男信牧と信建の嫡男で若年の熊千代を擁立した津軽建広との家督争いから津軽のお家騒動は始まっている。
その後、幕府により建広は津軽追放を命じられ信牧が当主となったが、更に信牧の正室側室絡みのお家騒動が勃発する。

黒石藩の起源は、度重なる藩内のお家騒動による弱体化に対する強化と、分藩する事で騒動を和らげ人材の編成を試みたというのが幕府の狙いだったろう。

274: 人間七七四年 2009/07/01(水) 11:53:41 ID:bHVB6tOW.net
晴政→勇将
信直→知将
しかし自分が考えるに、北信愛が居たから成り立つ戦国時代の南部。
信愛が居なきゃ江戸時代の腐れ南部になる。

276: 人間七七四年 2009/07/07(火) 14:47:08 ID:k960LZDN.net
南部って秀吉が来る前は南部一族がみんな独立大名みたいなもんだよな。

302: 人間七七四年 2009/11/07(土) 10:24:55 ID:DG+YIne4.net
南部は北より南下してたらどうなっていたかな

303: 人間七七四年 2009/11/07(土) 22:36:46 ID:WPT/pgFF.net
>>302
一応南下もしてたけど、険悪だったのは東だからあんまり変わらんのじゃないか?
北の津軽も騒動は東が元だから、南は放置せざるをえない。
斯波・阿曽沼・和賀とかとはそこまで敵対関係じゃないし。
味方とは言わんけど。

304: 人間七七四年 2009/11/08(日) 10:18:15 ID:pKsUlZaY.net
葛西と戦ったけど負けたんじゃなかった?

305: 人間七七四年 2009/11/08(日) 18:42:22 ID:i2PV+Esl.net
葛西家中の柏山氏とよく戦ってる
葛西家臣でも柏山や江刺は和賀・阿曽沼とも関連があるから
南部の南下戦では共同して対応とかもしてる

319: 人間七七四年 2010/10/31(日) 07:14:54 ID:PefAkVTo.net
三戸城が要害過ぎてビビった。

321: 人間七七四年 2010/11/08(月) 14:39:06 ID:eXvsV0pc.net
三戸は意外と山上が広いからね。コンサート会場まであった記憶が。
桜見の季節は賑やかだからオススメだな。
ちょっと遠いが駅へ歩いて帰ることも可能な距離。

327: 人間七七四年 2011/01/15(土) 21:58:23 ID:5UQa4dhB.net
三戸城あれ攻め込むのは大変な気がする。
東北地方の城跡とか見るのが趣味だけど、
あそこほど天然の要害って城は初めて見た。
湧き水もあるらしいし野望での評価はちと低い気がする(三戸城だけ)

328: 人間七七四年 2011/01/16(日) 03:22:38 ID:ZcY+V041.net
三戸は山上が見た目と違い広く、それでいて険しい。
良い場所に目をつけたね。

329: 人間七七四年 2011/01/17(月) 22:20:05 ID:tsrVrHL7.net
のぶやぼでは南部晴政は戦闘だけの突撃バカだが、
実際は政治家としての功績の方が大きい。
政治は南部晴政、軍事は九戸政実の両輪がうまく稼働してた時が南部の絶頂期だった。

332: 人間七七四年 2011/01/18(火) 20:45:12 ID:pU2bKXNS.net
津軽為信の独立は南部晴政が
津軽斬り取り次第って命令出したのって本当なんですかね?

333: 人間七七四年 2011/01/20(木) 19:49:19 ID:a4KTHkJr.net
津軽切り取りというよりは石川高信討伐を
九戸政実を通じ指示したと見るべきかと。
結果的に信直の最有力支援者を潰し
廃嫡に成功してる。

336: 人間七七四年 2011/02/02(水) 11:03:59 ID:G1o4ELr0.net
ところで南部家最盛期の石高ってどんだけあったの?

同じく安東家と戸沢家の最盛期石高もご存じのかたよろしくお願いします

340: 人間七七四年 2011/02/02(水) 22:23:26 ID:TCEMtv3b.net
>>336
最盛期でも10数万石でしょ。
津軽地方には浪岡北畠氏もいたし津軽での南部の石高は
多く見積もっても2万石くらい。
それに太閤検地での石高を合わせたのが最盛期。

ただ北奥羽に関しては石高だけじゃ語れないものがあるのも事実。
九戸の乱で動員した兵の数は南部側が5千に対し九戸側が6千。
石高の割には兵の数が多いのが南部の特徴。

337: 人間七七四年 2011/02/02(水) 16:16:28 ID:aMn5J9yl.net
南部の場合、書類上の石高はともかく
実際の石高は夏場の天候(気温とか)でかなり上下変動したはず。

338: 人間七七四年 2011/02/02(水) 18:58:57 ID:umi4djU/.net
藩政になってからは20万石。それを基準にすると、最盛期だと
岩手の3分の2+青森全土で、30~35万石くらいじゃないの?

341: 人間七七四年 2011/02/03(木) 00:42:57 ID:dxCj1zvD.net
このページによると、実高は約27万石ほどだったらしい。
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/fjitu60.html

ついでにいうと、江戸初期のころの南部藩は、金山・銅山などの鉱山収入や
馬や紫根などの特産物で「諸侯に冠たり」といわれるほど裕福だったとか。

ビンボーになったのは、鉱山が枯れてから。

343: 人間七七四年 2011/02/03(木) 18:23:51 ID:76NvHHWu.net
石高以上に兵力が多いのは、やはり副収入(>>341に書いてるような)があるから?

346: 人間七七四年 2011/02/03(木) 23:12:24 ID:Lgpfv6gC.net
>>343
石高という測定では米が最も高くカウントされ
南部氏の領内での主食の
粟、稗、麦、芋類は石高のカウントが低いからだよ。
太閤検地でも畑類は低いランクに区分されるからね。

345: 人間七七四年 2011/02/03(木) 22:37:40 ID:2Uzl+fV/.net
>>341
岩手の民謡南部牛追い唄でも、
「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」と高らかに歌われているほどだしねぇ。
当時はそうとう潤っていたんだろう。

347: 人間七七四年 2011/02/05(土) 17:45:34 ID:ig8oj6XC.net
あと単純に搾取酷いからだな
江戸時代通じて一揆最多藩は伊達じゃない

348: 人間七七四年 2011/02/06(日) 07:59:58 ID:mwNdP+lH.net
もしお家騒動が起きなかったら
北東北くらいは支配出来てたかもな。
島津と同じように地の利もあるし。
ただなんかしていけばいいだけだから。

351: 人間七七四年 2011/02/06(日) 10:42:49 ID:ehL4rqL8.net
>>348
そもそもお家騒動なかったら八戸南部さんが本流じゃないですかーヤダー

353: 人間七七四年 2011/02/06(日) 13:35:40 ID:mSHQHLFS.net
>>351
八戸南部氏が本流だったのは、南北朝時代まででは?

358: 人間七七四年 2011/02/06(日) 23:30:39 ID:ehL4rqL8.net
>>353
南北朝の趨勢が決まったあとも南朝勢力として力を保持してきたのが南部氏
三戸南部と交代するのは室町中期でもっと後になる

350: 人間七七四年 2011/02/06(日) 09:50:15 ID:LTmMDtfP.net
そんなことより南部信直の津軽への関心が小さいような気がする。
家督継いでからは比内調略(後に安東に奪還されてるが)とか
斯波氏滅ぼしたりしてるけど津軽とは目立った合戦はしてない。それが不可解。

352: 人間七七四年 2011/02/06(日) 12:34:02 ID:ZCv+8thz.net
>>350

なにかと多忙で余力がなかった。

津軽は小規模戦闘がうまいから、本気で戦争するとやっかい。

359: 人間七七四年 2011/02/07(月) 00:24:02 ID:4VtwxZYx.net
>>350
まったく同じことを考えてた。
信直自身、斯波と比内には出陣しているけど、
津軽には行っていなかったはず。
南部の主張どおりなら実の父と弟の仇のはずなのになぁ。

為信に領地を侵犯された七戸が結局九戸に付いてしまったのも気になる。

360: 人間七七四年 2011/02/07(月) 18:37:38 ID:Rm4ZMl83.net
>>359
不来方(今の盛岡)一帯と比内(今の大舘)一帯に比べると、
津軽は不毛の土地だからじゃないかな。それに遠いし。
心情としては進攻したかったかもね。

362: 人間七七四年 2011/02/07(月) 20:42:37 ID:EQFM3BYT.net
津軽を奪還するメリットがなかっただけだろ。
上の方で書いてる人もいるけど
南部が支配してた地域は津軽の半分もなかった。
メリットが希薄な合戦なんてそりゃ北も八戸、九戸も
乗り気はしない。

370: 人間七七四年 2011/02/13(日) 08:04:55 ID:xDmtDD/j.net
つまり御家騒動が起きなくても南部の領土は
大して増えないでFA?

372: 人間七七四年 2011/02/13(日) 09:18:01 ID:FlB1rfjX.net
近世大名として脱皮しない限り無理。
唯一それが可能なのは九戸くらいしかいない。
九戸政実がもっと早く乱を起こし、
中世大名から近世大名になれていたら違ってただろうがね。

373: 人間七七四年 2011/02/13(日) 10:02:23 ID:EepnQeYm.net
>>372

九戸政実は戦闘指揮官としては有能だったかもしれないが
それ以上は無理。

376: 人間七七四年 2011/02/13(日) 10:44:23 ID:FlB1rfjX.net
>>373
近世大名に脱皮できるとしたら九戸しかいないってこと。
九戸政実の資質とかは置いておいて、
強力な中央集権型の権力構造を作れた可能性があったのは九戸だけ。

377: 人間七七四年 2011/02/13(日) 13:50:22 ID:QUkCQxSz.net
九戸は政治感覚が欠如しているような
近世っていうなら、むしろいち早く中央(信長秀吉)に近づくか、南部家内部に
味方作ってから跡継ぎ名乗るなり、謀反するなりしないと。
北信愛に主導権とられて、単に駄々っ子のように謀反しただけの人が近世大名とか
無理だと思う

386: 人間七七四年 2011/02/16(水) 19:39:00 ID:IS1/JGad.net
>>377
上手いこと手綱を握ってくれる人が居て
はじめて力量を発揮するタイプだろうね。
滝川一益と同じような人かもしれない。

378: 人間七七四年 2011/02/13(日) 14:06:24 ID:PO9YqGnH.net
そういう外交や政治感覚云々の話じゃなく>>376が言いたいのは
強権専制的な、いわゆる戦国大名としての近世大名の事を言いたいんでしょ

384: 人間七七四年 2011/02/14(月) 20:27:54 ID:KlzSMF8B.net
中央集権にしろ強権政治にしろ大名に権力を集中させるってことは
国人領主を土地から引き離し、妻子ともども大名の城下に住まわせることだからな。
武田信玄も上杉謙信はもちろん毛利元就も出来なかったことをやれるわけがない。

387: 人間七七四年 2011/02/17(木) 16:06:49 ID:IjAstY3X.net
九戸も国人の寄せ集めって点では三戸と変わらんと思うよ
三戸が五戸や鹿角・岩手郡方面へ勢力を扶植したのに対して、
九戸は久慈や四戸(櫛引)なんかの国人を婚姻で取り込んで大きくなったわけで
その他にも独自勢力の一戸・七戸・八戸なんかがいるわけだから
集権的な権力構造を確立するのは(政実でも信直でも)難しい事だったと思う

388: 人間七七四年 2011/02/17(木) 16:13:48 ID:27CPFrcM.net
>>387

島津も室町初期はそんな感じだったが
だんだん強化していった。

389: 人間七七四年 2011/02/17(木) 17:03:44 ID:dqJbxvZ4.net
>>388
奥州仕置が無くてもう一世代くらい戦国時代が続いていたら
三戸か九戸のどっちが主導権握るにしろ、南部もそうなっていたかもね

390: 人間七七四年 2011/02/17(木) 20:10:58 ID:dlODZRnL.net
詳しそうな人が居るのでお伺いしたいのですが、
南部は北畠に対しては進攻もせず保護していたのに、
同じような室町時代の名家である斯波とはどうして
良好な関係を保たなかったのでしょうか?

391: 人間七七四年 2011/02/17(木) 21:49:45 ID:OGFlFSUQ.net
単純に言えば北畠→南朝、斯波→北朝だから

南北朝時代の南部氏の宗家は八戸の南部師行
彼は土着していた訳でなくて幕府に出仕していた人物
北畠顕家が奥州下向するに伴い、師行も下向
土着していた弟の南部政長と一緒に顕家を支えることになる。

尤も、顕家時代の南部氏の役割は北部の鎮圧で
顕家の第一次西征には南部氏は参加していない
第二次西征には随行、顕家と共に師行は戦死している
南部氏は師行の弟である政長が掌握して、一貫して南朝、というより北畠氏を支える姿勢を見せた。
これ以降の奥州に於ける北畠氏の後ろ盾は結城→伊達→南部と変遷していった
つまり北畠顕信は北に追いやられていったわけで、最終的には出羽に行ったとか色々言われている。
その過程で奥州に土着したのが浪岡北畠氏であり、顕家の血とも顕信の血ともされている

話は戻るが、この南北朝初期における奥州戦線で顕家と対峙していたのが斯波家長であり
奥州総大将および関東執事として鎌倉で足利義詮を擁して顕家と睨み合った。
この家長は顕家に討ち取られたが、その後石津の戦いで顕家が戦死するに及び
南朝は顕家の代役に顕信とその父・親房を奥州に送り込もうとする。
しかし親房と、顕家の片腕だった結城宗広は船が難破したために奥州に渡れず(宗広はこの時に病没)
そのタイムラグが関東、奥州における南朝勢力の衰退を決定づけたといっていい。
関東は高師冬が、奥州は石塔義房が送り込まれて、南朝勢力を打ち破っていった。
ただし石塔義房の奥州攻略は北畠顕家のそれを踏襲していたもので
顕家が独自に用いていた郡検断権を旗下の大名に与えるというシステムをそのまま用いている。
だからこの時期の和賀氏なんかへの恩賞の沙汰は南部政長が行ってるのが史料に残っている。

北畠顕信と南部政長は稗貫氏、葛西氏らを合わせて南下する構えをとり
石塔義房は周囲に泣きつく程、追いつめられたけど、援軍を得て勝利
そのまま里屋城や八幡城を攻略して南部氏攻略を行ったけど、そこは挫折した。
ために、南部氏は一定の勢力を奥州の北部で維持することができた。
石塔氏は解任されて、吉良(直義派)、畠山(尊氏派)が奥州に派遣される。
概ね、畠山氏が有利にすすみ、その間隙を縫って顕信が国府を奪回したりするが
斯波氏が奥州で台頭するのはさらに後になる。家長(高経の子)ではなく家兼(高経の弟)
その頃、斯波氏は尊氏方に帰参し、尊氏死後は執事として幕府の全権を握った為に
吉良、畠山、石塔らとの奥州管領を巡る戦いに勝利することができた



392: 人間七七四年 2011/02/17(木) 22:07:26 ID:CTPAU3W1.net
浪岡北畠は南部が創立したと言っても過言じゃないから。
あと羽後や北奥羽の大名、国人にとっては上方との重要なパイプであり
北東北では最も高家だった。
一方の斯波は元から仲が悪い上にちょくちょく
岩手郡にチョッカイを出していたので南部にとっては
例え高家でも滅ぼすのに何の躊躇いもなかった。

394: 人間七七四年 2011/02/18(金) 23:12:25 ID:1Duq9Amq.net
津軽為信が浪岡北畠を滅ぼしたことが
安東と蠣崎の津軽侵入の理由になったからな。
その際、国人も蜂起した。
浪岡北畠という存在はある意味北奥羽や羽後にとって
不可侵な存在だった。

395: 人間七七四年 2011/02/18(金) 23:24:32 ID:IvLuPtd0.net
浪岡御所は安東愛季の娘婿でもあったからね。
南部と安東は昔からいがみ合ってたにも関わらず、
共に北畠を保護し続けてた。
北畠の滅亡は、結果として南部と安東の歴史的な和睦につながる。(一瞬だけど)

396: 人間七七四年 2011/02/18(金) 23:40:47 ID:2vzHrM25.net
南部の栄華は戦国時代たけでしょ?
津軽、九戸、飢饉。

397: 人間七七四年 2011/02/19(土) 01:44:47 ID:OlwNMvyu.net
津軽為信は安東の攻撃で敗北寸前まで追い込められているんだよね
それでも挽回するあたり、為信は本当にしぶとい武将だと思うわ

>>396
南部の栄華はむしろ南北朝。北畠から検断権もらってブイブイ言わせてた
飢饉は金山尽きて重税課すようになった江戸時代中期以降が本番ね

398: 人間七七四年 2011/02/19(土) 01:58:47 ID:ZSOVsefm.net
確かに検断を貰っていたけど、ブイブイ言わせるほどの勢力も無かったと思う
滴石近辺での恩賞沙汰はごたついてるのが見て取れるし、比内から青森にかけては
曽我氏や成田氏などが健在で影響力を及ぼせなかったわけだし

南部氏の最盛期はやはり八戸南部時代ではなく三戸南部氏
ただし戦国時代ではなく、室町時代
つまり安藤氏を津軽から駆逐した時期が一番輝いていたと思う
でも、安藤氏の持ってた制海権は得られなかったんだよな

399: 人間七七四年 2011/02/19(土) 02:15:28 ID:OlwNMvyu.net
あー、確かにそうかも。安東追い落として安東太傀儡に立てたころな。すぐに離反されたけど
あとその頃にちょうど八戸が田名部を領土にしてんだよな

403: 人間七七四年 2011/02/19(土) 15:35:07 ID:BrL3TNOe.net
>>399
安東太傀儡

404: 人間七七四年 2011/02/19(土) 16:04:46 ID:QzXiFFR8.net
安東太=安東師季(政季)でおk

安東師季は元々後潟安東氏の人で、
本家の下国安東氏が津軽から追い出された頃南部氏の捕虜となった。
その後南部氏に仕えて田名部に所領を与えられている
安東太政季の名乗りは南部氏の配下として田名部に知行した際に名乗った名前
その後下国安東氏の直系が絶えた後、下国安東氏を再興して南部から離反、
後の蠣崎氏の先祖となる武田信広らと共に蝦夷地へ出奔するわけ

405: 人間七七四年 2011/02/19(土) 16:40:07 ID:vviLdR94.net
>>404
訂正
後潟→潮潟

406: 人間七七四年 2011/02/19(土) 18:03:06 ID:BrL3TNOe.net
おぉ親切にありがとう。
それってだいたい年代はどのくらいと思われるの?

410: 人間七七四年 2011/02/19(土) 20:28:52.07 ID:5oG3iIqp.net
>>406
師季が捕虜になったのが1450(宝徳2)年
蝦夷地に渡ったのが1454(享徳3)年だね、確か

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