みちのく瓦版

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毛利と大友の北九州攻防戦を語ろう

aiohfdap@o
1: 人間七七四年 2007/02/22(木) 14:14:40 ID:DFbOxH4O.net
一般的にはあまり知られていないが、
戦国時代全体を通しても、稀に見るほど激しい戦いと謀略戦が繰り広げられた、
中国の毛利氏と九州の大友氏による北九州を巡る攻防戦について語ろう。

それ以前の大内氏による九州進出の話題なんかもOK。



DQNネームに新たにスゴい名前が出てきてる

余命半年くらいのおかまだけど質問ある?

韓国高速鉄道KTX、また脱線(3年ぶり3回目)

高校のクラス全員で悪霊と戦った話させてくれ

西野カナの彼氏の理想高すぎワロタwwwwwwww

【韓国の反応】韓国人「これが韓国で発生する日本関連の奇妙な現象だ!」

【GIF画像あり】イスラム式のドッキリwwwwwwwwww

6: 人間七七四年 2007/02/22(木) 15:50:04 ID:BBvlhdB9.net
せっかく並以上の息子が3人も居たんだからうまく使えばよかったのにね!
備前や四国や九州遠征にいちいち元春、隆景コンビで行くので他が手薄になっちゃう。

7: 人間七七四年 2007/02/22(木) 17:20:34 ID:D2sBAY0o.net
それは裏を返せば、毛利家は人材不足だったと言うことかい?

8: 人間七七四年 2007/02/22(木) 17:39:47 ID:Pt2CB0H1.net
毛利家は人材不足だったよ
領土の広さの割に石高が低くてしかも元就の失策で多方面作戦していた

9: 人間七七四年 2007/02/22(木) 17:42:25 ID:DFbOxH4O.net
毛利は九州からさっさと撤退して東へと目を向けるべきだったね。
九州に構ってる間、大内や尼子の旧臣に反乱起こされてるし
結局元就死後撤退してるし、無駄でしかなかった。
いくら博多の経済力は魅力とはいえ。

結局元就は室町幕府的な発想から抜け出すことができなかったんだな。

10: 人間七七四年 2007/02/22(木) 17:47:48 ID:K+Bk7TU0.net
成りあがった毛利家の体質はガチガチの豪族連合だからな。
彼らの利害やら利権でがんじがらめになっているわけで・・。

11: 人間七七四年 2007/02/22(木) 17:54:40 ID:wwaQ87NB.net
この争奪戦
戦略的には大友の勝ちって事でよろしいですか?

13: 人間七七四年 2007/02/23(金) 00:12:49 ID:VfjGe/cB.net
出雲に鹿之介が侵入すると、すかさず山口に大内輝弘を攻め込ませて、九州から毛利勢を撤退させた大友宗麟の智略も評価されて良いと思う。
対大友戦は毛利の負けでしょう。

16: 人間七七四年 2007/02/23(金) 12:25:49 ID:vhydxx9M.net
大友は大内滅亡に乗じて本州に攻めあがれなかったのかな?
毛利はいまだ尼子抱えてたのに
逆に門司を押さえられちゃったんだっけ
毛利も隆元存命してたら撤退はなかったかもなー

18: 人間七七四年 2007/02/24(土) 00:09:06 ID:pFO2awy6.net
>>16
そもそも大友宗麟が弟の大内義長に援軍を送らなかったのは
毛利が九州の大内領を大友方に渡す約束をしていたからみた
いだね。
で、信じきってたら門司城を攻め取られちゃったてのが発端。

17: 人間七七四年 2007/02/23(金) 14:01:09 ID:VfjGe/cB.net
元就が死ぬ数年前から毛利は結構厄介な状況になってるな。

九州では大友と敵対

周防においては大内輝弘が大内残党率いて蜂起、山口を奪い。

出雲伯耆などでは、山中などの尼子再興軍が一時は月山冨田城を囲むほどの勢い。
また美作も高田城が包囲される。

山陽だと備前の浦上宇喜多が毛利と敵対し、備中の毛利領を攻撃し、備後でもそれに
呼応するものが出てくる始末。
また四国の阿波三好も浦上に協力して備前へ進出。

更に村上武吉が大友に寝返るという状況。

それに対し元就は九州を放棄して大友と講和、領内の一揆反乱を鎮圧、義昭信長に要請して
浦上宇喜多や三好を背後から牽制させようとする。(このときの信長は応えられる状況にない)
そして尼子再興軍をなんとか出雲から追い出す。

ここで元就はタイムオーバー
浦上宇喜多を降服させ尼子軍を駆逐して備前因幡まで制圧するのは輝元。
まあこのあと三村浦上の離反でまた大変になるんだが。

19: 人間七七四年 2007/02/24(土) 21:39:08 ID:ktmq51DH.net
勇戦・多々良浜の戦い
1569年、立花城を陥落させて意気上がる毛利軍は4万の兵で多々良川を渡河して対岸の大友軍3万5千の陣地に対して攻撃を開始した。
毛利軍は多々良川を渡河して大友軍陣地に波状攻撃を仕掛けた。瞬く間に戦線は拡大していったが、兵力で勝る毛利軍が優勢だった。

このとき、道雪は毛利軍・小早川隆景隊左翼備えの兵力の幅の無さを見て取り、鉄砲隊800をもって一斉射撃をして前線に穴を作った。
その穴に立花隊5千を突っ込ませて毛利軍陣地を突破すると、さらに背面展開を始めて毛利軍の長蛇の陣を包囲攻撃して後方に後退させた。
さしもの毛利軍も後方の簡略陣地では勢いに乗る大友軍の総攻撃を支えきれずに撤退していき、立花城は戦後に大友軍に明け渡された。

この一戦以降、道雪は九州から中国地方にまでその武名を轟かせた。

26: 人間七七四年 2007/02/26(月) 15:48:32 ID:UQ4IA1Hb.net
多々良浜の合戦って、毛利両川VS大友(道雪参戦?)と聞くと華々しいけど、両軍入れ乱れてというより、小手先の合戦を何度か繰り返しただけでしょ?

28: 人間七七四年 2007/02/27(火) 18:44:09 ID:kO+qwpiT.net
>>26
多々良浜の戦いは69年5月から11月までで大小18回くらいやりあっ

28: 人間七七四年 2007/02/27(火) 18:44:09 ID:kO+qwpiT.net
たらしいね。中でも一番有名な>>19のは5月18日の戦いのことらしい。

あと有名なのは、毛利が九州から撤退する際に陣所に火を灯したまま、
夜陰に紛れて逃れようとしたところを、大友軍が見破って追撃をかけて
吉弘鎮理(高橋紹運)を擁する吉弘鎮信隊が大戦果を挙げたっていう
のかな。

29: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/28(水) 16:31:46 ID:7j5rW3du.net
>>28
何その変な話。資料は何?
陰徳太平記だと1569年の立花山城の撤退戦は
元春隆景本隊は夜陰と悪天候に乗じて無傷で撤退し
道雪は地団太ふんで悔しがるわけだが。

実際、九州から撤退した元春らは間髪おかずに山口を制圧してる。
これはとても追撃戦で大損害を受けた部隊の動きじゃない。
そもそも追撃戦があったとすれば立花山城に残った殿部隊の
浦宗勝隊はどうしていたのかという話になる。

普通に考えて、ない。

25: 人間七七四年 2007/02/26(月) 14:21:02 ID:jVuO2f4K.net
最初の九州への出兵は北九州沿岸を押さえることで、本州の旧大内領への大友の介入を阻止するのと
瀬戸内水軍を日本海側へ廻し、対尼子戦に投入するのが目的
見事成功し、月山冨田城への海上封鎖・兵糧の輸送も可能になり長期的な包囲が可能になった

二度目は博多の経済力目的

29: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/28(水) 16:31:46 ID:7j5rW3du.net
>>28
何その変な話。資料は何?
陰徳太平記だと1569年の立花山城の撤退戦は
元春隆景本隊は夜陰と悪天候に乗じて無傷で撤退し
道雪は地団太ふんで悔しがるわけだが。

実際、九州から撤退した元春らは間髪おかずに山口を制圧してる。
これはとても追撃戦で大損害を受けた部隊の動きじゃない。
そもそも追撃戦があったとすれば立花山城に残った殿部隊の
浦宗勝隊はどうしていたのかという話になる。

普通に考えて、ない。

27: 人間七七四年 2007/02/27(火) 14:00:13 ID:de1Aq1YS.net
博多を占領したとしても維持が難しいよな

大友との争いはどちらかが滅ぶまで続きそう

31: 人間七七四年 2007/03/11(日) 00:39:51 ID:Qw/8q5f+.net
陰徳太平記は、完全に毛利より。
毛利に都合の悪い話なんて、書けるわけないじゃん。
それこそ信用できない。

32: 人間七七四年 2007/03/12(月) 02:59:07 ID:787IimKz.net
>>31
九州治乱記・立花家文書も似たようなレベルなんじゃ

33: 29 2007/03/12(月) 14:20:36 ID:uq0lRfDD.net
>>31,32
そういうことw

34: 人間七七四年 2007/03/13(火) 00:07:46 ID:brEaETt+.net
大友って合戦面だと一部奮闘するものがいるものの
毛利にも竜造寺にも島津にも負けてるけど
ソウリンは軍略に関してはダメだったのかな

35: 人間七七四年 2007/03/13(火) 00:09:58 ID:xstIcexX.net
宗麟が直接指揮した戦ってどれだけあった?

36: 人間七七四年 2007/03/13(火) 00:19:30 ID:Ou28If4b.net
ほとんどない

37: 人間七七四年 2007/03/13(火) 02:08:44 ID:7u8K+Pz2.net
大友義鑑の代から、前線指揮を戦上手な重臣に任せていた。
当主が出てくるのは、軍勢の規模が大きくなりすぎた場合など。

41: 人間七七四年 2007/03/14(水) 00:12:41 ID:oTGxp8Zd.net
毛利は、東に専念した方が良かったと思うんだが、これって
今だから分かることかな。

42: 人間七七四年 2007/03/14(水) 00:13:30 ID:ZHggeRxm.net
それだけ筑前博多が魅力的だったんだろうな

43: 人間七七四年 2007/03/14(水) 19:10:53 ID:BESJ11Wr.net
毛利のスタンスは基本的に中国の攻略で、
余裕があれば九州・四国にも手を伸ばしたって感じ。
基本的には東を向いていたと言っていい。

そもそも事の経緯で言えば
1558年
大友の筑前進攻に対し、単独では対抗できなかった高橋鑑種ら諸豪族が
大内の後釜として毛利に援軍を要請したところから大友と毛利が対立した。
1563年
しかし元就は尼子に力を割きたかったので高橋らを見捨てて大友と講和する。
高橋らは憤懣やる方ないが仕方なく大友に事実上従属することになった。
1568年
毛利が尼子を滅亡させると、ここぞと高橋・立花らが決起し毛利に援軍を要請。
吉川小早川と大友が立花山城をめぐって対峙する。
が、尼子大内再興軍の反乱により毛利は九州から撤退。

という流れで、毛利の九州遠征は毛利単独の意思だけでなく
筑前・豊前の反大友諸勢力の要請によるところが大きい。
例えば1558年以来元就はさっさと九州から撤退したかったが
九州の反大友諸勢力が単独では大友に対抗できないので
元就に対し強硬に九州駐留を求め続け、これが撤退を遅らせる一因となった。

>>1のように九州攻防戦の主役を大友と毛利に据えるよりも
大友と反大友の攻防と考えた方が実態に近い。そこに毛利が加わったと。

44: 人間七七四年 2007/03/17(土) 01:12:03 ID:DbCYp/+s.net
>>43
事実はそうだろうけど、それを言ったら川中島の戦いを武田vs.北信濃豪族と言ってるようなもんだろ。
毛利の戦略の決定権はあくまで元就にあったんだから、九州攻防戦で毛利を脇役扱いするのはどうかと思うけど。

45: 人間七七四年 2007/03/17(土) 10:08:10 ID:DkLO02Dx.net
>>44
言いたかったのは、毛利の出陣の理由。
毛利はそんなに筑前・博多に魅力を感じてなかったのではないかなってこと。
二度ともあっさり手をひいてること、要請がなければたぶん出陣しなかったことからそう思う。

50: 人間七七四年 2007/03/29(木) 13:33:50 ID:xv7YNrQt.net
>>45
それだと、元就はたいした定見も理由も戦略も目論見も計画もなく北九州諸豪族の
言われるままに軍をだして損害を出して最終的に得るものなく手を引いたってこと
になってしまいますが。
その結果大友に決定的な不信感を抱かせることになって、東に進むのにも障害に
なってしまったと。

私は、元就がそれほど阿呆だったとは思えません。

52: 人間七七四年 2007/03/30(金) 01:02:36 ID:GhUM0f47.net
>>50
>それだと、元就はたいした定見も理由も戦略も目論見も計画もなく北九州諸豪族の
>言われるままに軍をだして損害を出して最終的に得るものなく手を引いたってこと
>になってしまいますが。

ならない。その帰結はかなり飛躍がある。

ところで四国遠征だってたいして見返りがあったわけじゃないぞ。
援軍を出すのは大きな大名の義務みたいなもの。拒否すれば威信にかかわる。

いや領土欲は普通にあったと思うよ。
援軍上手くいけば領土が手に入ることもあるわけだし。
けど取り立てて筑前・博多に執着してるわけじゃない。
豊前だって同程度に欲しがってる。その程度のこと。
だから中国地方が不安定になればすぐに手をひいたわけで。

46: 人間七七四年 2007/03/28(水) 11:49:42 ID:lLXnJQe5.net
大友家の毛利家に対する華麗なる戦績(門司城編)

弘治三年四月(1557)義鎮の実弟大内義長が元就に討たれるも援軍出せず。
同年七月 筑前の秋月・筑紫などが毛利に呼応し離反した為、二万余りの討伐兵で此れを降す。
秋月文種の遺児種実(当時13歳)は家臣に守られ周防へと逃れ毛利の庇護下に入る。

永禄元年六月(1558)宗像が大友から離反し、豊前の長野らも毛利に服属する。元就は小早川を
中心とする二万の毛利軍を関門の要塞門司城の向け此れを占拠し、三千の兵を配置する。

永禄二年正月(1559)種実は元就より精兵三千と援助を受け大友の守る古処山城を攻め此れを
奪還し旧領を回復する。(永禄十年説あり年齢的に十年説を支持する)

同年六月(1559)豊・筑で反大友勢が蜂起する中、大友義鎮は将軍家へ願い出て三国守護を賜る。

同年九月(1559)義鎮は北九州から毛利氏の勢力の一掃を計り西大友と呼ばれる庶流、立花鑑載に
は宗像を攻略させ自身は大挙して門司城を攻め此れを奪還する。当時石見に出兵中であった元就は、
門司城の陥落を知ると急遽嫡子隆元と隆景を派遣し、石見山吹城の包囲をとき撤退を余儀なくされ
る。小早川水軍の提督乃美宗勝らが海上より上陸し、身に数箇所の傷を受ける激戦も敵首級数百の
大勝にて門司城の奪還に成功する。大友の軍勢はなおも城の付近に集結して奪回を計るも、毛利水
軍提督児玉就方、宗勝らに背後から補給路を急襲され撤退する。

47: 人間七七四年 2007/03/28(水) 11:50:43 ID:lLXnJQe5.net
同年十一月(1559)幕府へ運動し念願の九州探題並びに大内氏家督を手に入れ北九州での地位を確
立させる。

永禄三年一月(1560)大親町天皇即位。献納の功により左衛門督に任官される。

同年三月(1560)大鳥へ逃れていた宗像氏貞が千の兵を持って許斐城を奪回し、白山城に入城す。

同年十二月(1560)尼子晴久病没。嫡子義久家督を継ぐ。

永禄四年六月(1561)毛利方二百余りの兵が守る香春岳城を兵数万を持って攻撃し、一ヶ月に及ぶ
攻防戦ののち此れを陥落させる。

同年八月(1561)門司城奪回に向け大友軍の総攻撃始る。
義鎮は兵一万五千を小倉に進出させ門司城を地上から攻撃させるとともに、ポルトガル船(ナウ型
5~600トン乗員300名片舷17~18砲門)数隻より海上から砲弾させ命中した砲弾により門司城は鮮血
で染まった。元就は再び隆元・隆景に門司城の援護を命じ派遣した。
この度も隆元は防府にて本陣を置き、隆景が先陣となって門司城救援へ向かったが、対岸の下関から
見える浦一帯は雲霞の如き大友の大軍がひしめいていた。隆景は決死隊を募り見事八百の兵を落城寸
前であった門司城へ入城させる。隆景は更に児玉に命じて豊筑沿岸も襲撃させ大友軍の背後を攪乱さ
せるも、十月二日には大友軍も豊前沼に屯営していた毛利軍を襲撃し城地の奪還に乗り出し、村上・
児玉両水軍が更に背後から大友軍へ攻撃を仕掛け後方遮断にでるも、大友は堅陣を構え益々増強して
いった。

十月十日遂に大友軍は門司城へ向け総攻撃を開始した。門司城に入城していた隆景も城外に出て奮戦。
宗勝、就方らも大友軍の背後から上陸し壮絶な戦いが始った。宗勝は敵将伊美弾正と一騎討ちを演じ
負傷するも見事討ち取る。この戦いで大友軍は竹田津則康、吉弘統清、一万田源介、宗像重正、大庭
作介らの諸将が討ち死にした。十月二十六日 大友軍は大軍を持って最後の決戦に望むも、押し切れず
大里まで撤退する。十一月五日には夜陰に乗じ総撤退を開始するも、撤退を見抜いた隆景により先回
りされ、待ち伏せにより大打撃を被る。

永禄五年正月(1562)大友義鎮、将軍足利義輝に黄金五十両を送る。
同年三月(1562)大友方の志賀常陸介が、香春城の城督に任ぜられている。
同年五月(1562)大友義鎮は剃髪する。
同年八月(1562)松山城を毛利が奪還する。将軍家より仲裁が入るも元就拒否。
同年九月(1562)一日大友方が苅田表に夜討ちを企てたが撃退される。十三日にも同じく大友勢が松山
城を攻撃するが、これもまた撃退される。十九日にも懲りずに松山城を攻めるが撃退され、逆に番春城
を毛利に奪還される。
同年十月(1562)十三日大友氏は門司表の毛利軍を攻めるが、敗れて撤退する。

永禄六年正月(1563)二十七日戸次鑑連が松山城を攻撃したが天野隆重により撃退される。
永禄六年三月(1563)大友宗麟娘を隆元に差し出し和議が成立し大友完全勝利で幕を閉じる!!

48: 人間七七四年 2007/03/28(水) 16:14:38 ID:vq3kyPAI.net
ちょwww

49: 人間七七四年 2007/03/28(水) 21:14:26 ID:eCk3wX+J.net
最後まで読んで茶吹いた

55: 人間七七四年 2007/03/31(土) 21:13:30 ID:7SXZ1Sdw.net
隆元あたりは大内の最盛期に山口にいたんだから博多の経済的重要性は認識してても
よかったはずなのに

56: 人間七七四年 2007/03/31(土) 21:51:01 ID:hdD2n0DD.net
石見銀山の保守はもっと重要だと思ったんじゃない?

まあ全ての大名が経済権益のためだけに動いてるわけでもなし。
他のいろんな要素も絡んでるだろう。

58: 人間七七四年 2007/04/05(木) 13:58:29 ID:RJrEemwe.net
博多が大友支配下になるのは、それこそ大内滅亡後じゃないのか?

59: 人間七七四年 2007/04/05(木) 19:34:58 ID:4S2TnRTv.net
>>58
南北朝の動乱期に博多に所領を得ている。
その時設立されたのが、立花氏。
大内氏滅亡前から、大友氏は、家臣の派遣も行っている。
たとえば、豊後の三老の臼杵鑑速の兄臼杵鑑続も博多に
派遣されていた。

61: 人間七七四年 2007/05/22(火) 21:23:49 ID:5z7mYpxP.net
毛利は九州に誰か全権司令官的立場の武将を置いて任せとくことができればな
いちいち両川が出てきて本国をからっぽにしとくんじゃきつい

63: 人間七七四年 2007/06/29(金) 07:10:33 ID:BVHrJ7SL.net
結果的には大友の勝利とも言えるが、
それはあくまで毛利が尼子残党の蜂起で背後を脅かされたから。
がっぷりよつに組んでれば毛利が勝ってただろうね。
オオともは毛利に武略では負けなくても結束が弱く調略に弱いからね。

64: 人間七七四年 2007/06/29(金) 08:17:52 ID:W8DKGRx+.net
宗麟ちゃんが名君状態を維持してくれていれば大友が毛利に勝つる!
ま、あの変貌っぷりが宗麟ちゃんの魅力でもあるわけだが・・・

65: 人間七七四年 2007/06/29(金) 08:51:49 ID:iHKztA5O.net
隆元が死ななければ、九州計略の目は消えなかったと・・・
ただし、毛利にとっての優先順位は中国>九州、四国ってこと。

66: 人間七七四年 2007/06/29(金) 19:21:55 ID:AVHwZI+a.net
そりゃ自国周辺の中国地方が第一だわな。
九州も四国も海隔ててるし。もし本拠地が長門だったりしたらまた違ったかもしれんが。
毛利が人材不足でなかったら大友の領地奪えてたかもね。

74: 人間七七四年 2007/07/02(月) 06:49:38 ID:M8pzpZfL.net
確か毛利って大内を滅ぼした時、大内に居た大友の人質を殺したんだったっけ。 
何で人質を殺したんだろうか? 
人質を生かして大友と同盟を結び、東に集中した方が良いと思うんだけど…。

だれか詳しい方、お願いします。

75: 人間七七四年 2007/07/02(月) 15:07:07 ID:h6T2X/Oi.net
>>74
大内に居た大友の人質を殺したんだったっけ>
条件付きで送り返そうとしたら、宗麟が「いらん、好きにしたら?」って見殺しにしたんだよね。

76: 人間七七四年 2007/07/02(月) 18:48:44 ID:y8yQCyQC.net
宗麟の実弟のこと?
大内家出身の側室から生まれた弟よりも北九州のが大事だったんだよね宗麟は。
飛び地状態だった領地を繋げたかったのと、博多港が欲しかったから。

79: 人間七七四年 2007/07/04(水) 19:05:45 ID:B0HZFq/5.net
相変わらず宗麟ちゃんは頭がおかしいな

80: 人間七七四年 2007/07/04(水) 23:14:12 ID:AAJufxN4.net
だからといって切腹させなくてもいいと思うがねえ。

86: 人間七七四年 2007/07/09(月) 22:53:14 ID:iVTmtVo3.net
北九州やるから協力しろ(=弟見殺しにしろ)と提案した元就と
それに乗った宗麟。

87: 人間七七四年 2007/07/10(火) 20:17:10 ID:vjZhqiJV.net
>>86
で、その後元就に攻め込まれたなw

88: 人間七七四年 2007/07/12(木) 06:53:14 ID:4EdW4U3R.net
「身内を見捨てろ」なんて相手の性格よく知ってなきゃ言い出せんよな。
この辺も凄いと思うよ毛利は。

100: 人間七七四年 2007/07/22(日) 16:49:24 ID:mEpog5mO.net
だいたい大友が大名相手に勝った戦いって有るのか?
豪族クラスを相手に大軍で押し潰してきただけじゃね?

101: 人間七七四年 2007/07/22(日) 18:51:09 ID:nqh5vcix.net
>>100
つ【勢場ヶ原】♪

103: 人間七七四年 2007/07/22(日) 21:03:23 ID:MILB2GYt.net
>>100
戦いは数だよ、兄貴。

106: 人間七七四年 2007/07/23(月) 19:41:16 ID:CTii0Mbq.net
>>103
その数をそろえて、竜造寺・島津にボロクソに負けたのだよ、弟よ。

102: 人間七七四年 2007/07/22(日) 19:38:31 ID:R7Jcb6AG.net
大友が大軍を率いると負けフラグ

105: 人間七七四年 2007/07/22(日) 23:56:59 ID:cRbUF1sz.net
この時は本当に大友宗麟が輝いていたな・・
本当に一瞬だけだったがww だがその一瞬が凄すぎたんだよな

108: 人間七七四年 2007/07/30(月) 00:24:55 ID:KVjA3sSx.net
こんな馬鹿殿でも滅亡までに30年近くかかっているのだから
大友という家の求心力はすごかったんだな

110: 人間七七四年 2007/07/31(火) 07:04:15 ID:UWetIvGi.net
>>108
元々家が大きかったのもあると思う。
九州の名家だったから家臣も嫌々ながら着いて来た。
(忠誠心から着いて来た武将ももちろん居るが)
これが弱小大名家だったらあっという間に滅びてる。

113: 人間七七四年 2007/09/05(水) 07:46:14 ID:8nnUY8QY.net
宗麟はやればできる子

114: 人間七七四年 2007/09/05(水) 17:15:37 ID:SnWlbUcH.net
どこが?

115: 人間七七四年 2007/09/05(水) 19:25:36 ID:DWK/pd0z.net
つーか晩年に暗愚化したパターンで
北九州攻防戦の時代は有能だろ。
自ら陣頭指揮をとるタイプではなく、戦略家というより外交家だが。

116: 人間七七四年 2007/09/05(水) 19:38:21 ID:VmCs4lZM.net
・先代の横死で跡を継ぐ
・若い頃は英主
・老いて老害を撒き散らし子供たちが揉める

孫権かこいつは?

117: 人間七七四年 2007/09/05(水) 20:34:24 ID:Yecoc5/l.net
子供がヘタレで隠居出来ずだから
少しは同情の余地はあるかと

210: 人間七七四年 2008/08/15(金) 15:19:46 ID:wSnh4xx1.net
攻められぱなしの大友と攻めきれなかった毛利って感じだな

212: 人間七七四年 2008/08/15(金) 23:21:01 ID:QUMWBFMk.net
大友宗麟って最終的な結果はともかく魅力のある武将だと思うな

234: 人間七七四年 2008/08/25(月) 21:55:50 ID:PRL84rWn.net
立花道雪は無敗とか言うけど、秋月の奇襲で弟皆殺しにされたじゃん。

鍋島の奇襲で負けた時も参戦してる。

235: 人間七七四年 2008/08/25(月) 22:57:23 ID:39DPd207.net
>>234

戦死しなければ、負けでは無い。


と言ってみたりする。

でも、自分も今山の戦いは気になった。

龍造寺との戦いを単体的に見れば負けたが、
全体的に見れば、負けては無いという事か?

236: 人間七七四年 2008/08/25(月) 23:40:01 ID:PRL84rWn.net
>>235
軍隊同士の戦いに指揮官が戦死しなければ負けでないとか言われても。
それなら信長は本能寺の変以外は負けてないことになる。


今山でも軍事作戦で負けて、兵力差による政略で優勢に立っただけだし。

237: 人間七七四年 2008/08/26(火) 01:49:05 ID:6oDNJWXU.net
>>235-236
今山合戦のきっかけは龍造寺が周辺豪族の領地を切り取ったことに有る。
その時の肥前の諸豪族は龍造寺を含め大友に帰順していたので、
この行為は大友に対する謀反に当たる。

そこで大友は6万の軍勢を出して龍造寺の本拠地佐賀城を包囲する。
包囲勢の大将は大友親貞で、今山に本陣を置く。
この今山を龍造寺が夜襲して本陣を打ち破り親貞の首を取る大戦果を上げる。
しかし大友側は本陣以外は無傷でそれ以降も攻囲を続ける。

最終的に大友は佐賀城を攻めあぐね、
「龍造寺は大友に帰順する、しかし出兵の原因であった龍造寺の周辺領地の切り取りは黙認する」
という条件で講和。
大友は龍造寺を降伏させるという面目は立てたが、龍造寺にしてみれば切り取り自由のお墨付きを手に入れたようなもので、
以降周囲への攻勢を強めている。

ということは、今山合戦は軍事的にも政略的にも龍造寺の優勢勝ちだろうな。


ちなみにこの時の道雪は佐賀城の西側(今山は東側)に陣取っていた為、特に損害も無く功もなし。ただ居ただけの存在。

238: 人間七七四年 2008/08/26(火) 02:03:00 ID:JCa3oFlj.net
>>237

>>ちなみにこの時の道雪は佐賀城の西側(今山は東側)に陣取っていた為、特に損害も無く功もなし。ただ居ただけの存在。

でも、大友の隣に陣取っていたから、もしかしたら・・・ってな事になっていたかもと考えると、ガクブルもんだね。


240: 人間七七四年 2008/08/28(木) 14:31:08 ID:vvOSOS5/.net
秋月種実がある意味道雪以上の傑物だったってことだろ
茶器で降伏とかトホホ要素に事欠かないからネタ大名扱いされがちだけど

243: 人間七七四年 2008/08/28(木) 22:09:09 ID:7CV8uVKY.net
しかし実際、大友はまともに戦って勝ったのは弱小豪族だけ?
て印象しかないんだよな…

道雪、紹運て本当に名将なの?
紹運なんかは篭って玉砕ぐらいしか知らん
そんな奮戦した奴なんかいくらでもいるのでは?

244: 人間七七四年 2008/08/28(木) 22:32:45 ID:Jtw2+TXf.net
>>243
道雪は40年くらい第一線で活躍してる。
立花宗茂が活躍できたのは、個人の能力だけでなく道雪以来の厳しい軍律、結束力
などが基本となってるだろ。

246: 人間七七四年 2008/08/28(木) 22:44:10 ID:Z4Tvjfgq.net
この一連の戦いで村上と来島が仲違いしたらしいが、そこらの詳細って分かる人います?

249: 人間七七四年 2008/08/28(木) 23:56:28 ID:FFV4EULi.net
>>246
来島が能島、因島と決定的な断絶をしたのは秀吉が信長の後継者になった以降の話。
ただこの時期一時的に能島が大友側につき、小早川隆景の後援を受けた来島に攻められて降伏、毛利側に復帰
ってことがあるがそのことかな?

252: 人間七七四年 2008/09/01(月) 18:11:39 ID:Eiwgj3TX.net
>>249
ありがとうございます。
単に不干渉という事じゃなくて積極的に離反しちゃったのか。そりゃあかんわ。

289: 人間七七四年 2008/09/14(日) 09:37:37 ID:DqwZTEfI.net
1559年
毛利元就、吉川元春、小早川隆景が石見出兵中の隙をつき大友、豊前門司城を攻撃
門司救援に向かった毛利水軍の冷泉院元豊、赤川元徳らは柳浦で大友水軍に迎撃され敗死。
9月、毛利隆元が三千を率いて救援に向かい大友義鎮の軍勢を豊前門司城にて破る。

1561年
6月、大友軍が豊前に進撃開始。大友、毛利の全面対決が始まる。
8月、大友の吉弘鑑理、鎮信、鎮理親子勢一万五千は小倉表に着陣。
9月2日、戸次鑑連(立花道雪)、田原親賢、臼杵鑑速らは、和布刈神社近くの城下まで進出し城を攻めた。
また大友義鎮がキリスト教に友好的であっため、インドのゴアから来航したナウ型ポルトガル船が門司城に援護砲撃を行う
9月18日、門司城救援に水軍五百隻、一万の小早川隆景軍が赤間関に着陣。
八千の毛利隆元率いる本隊は防府、大専坊に本陣をおく。
堀立壱岐守、杉彦三郎ら毛利勢八百が関門海峡を突っ切り、門司城に入城
毛利の児玉就方、河内水軍を率い豊筑沿岸を襲撃
大友軍、豊前沼の毛利軍支隊を襲撃
10月、小早川隆景、門司城に入城
石見の福屋隆兼が毛利と大友の争いの隙をつき叛旗。吉川元春がこれにあたる。
10月9日村上武吉、大友軍の後方遮断にでる
同日、大友氏は門司城内の篭城兵の中に田北民部の縁の者、稲田弾正、葛原兵庫助を内応を試みる
しかし前日に発覚し二人は処分され失敗に終わる
10月10日、小早川隆景は前日に処分された二人が生きているように偽装、内応の合図の狼煙をあげ大友軍を誘き寄せる。
大友軍の総攻撃が始まると同時に小早川隆景は城外に出て奮戦。
浦宗勝、児玉就方らは毛利水軍を率いて門司沿岸に上陸、大友軍と激突。
浦宗勝と伊美弾正が一騎討ちを演じ、宗勝の勝利。
大友軍は小早川隆景の罠にはまり苦戦。臼杵鑑速が援護に行くが宍戸隆家に阻まれる。
竹田津則康、吉弘統清、一万田源介、宗像重正、大庭作介ら大友軍多数が討死。
毛利軍は海上から松山城(現在の苅田町)を攻撃
背後を毛利に断たれる事を恐れ大友軍は夜に撤退開始
撤退を察知した小早川隆景は水軍を率い、長躯迂回し黒田原・国分寺原で待ち伏せ。撤退中の大友軍に打撃与える。
松山城、香春岳城を毛利に奪われ豊前一帯は毛利領に

11月、毛利隆元、小早川隆景は門司から福屋攻めにあたっている吉川元春を支援に向かう

1562年
この年、元就は出雲洗合に本陣を移し半永久的な陣城を築き職人や商人を呼び城下町を建設
尼子義久の守る月山富田城の長期包囲作戦を開始する

1563年
1月、大友宗麟は松山城奪回に向かうが毛利軍はこれを撃退
3月、将軍、足利義輝の命で毛利と大友は和睦。
門司城は毛利領、松山城は大友に還付する事で合意。

8月、毛利隆元、急逝し幸鶴丸(毛利輝元)が毛利家当主となる

1564年
7月25日、毛利元就、元春、隆景と大友宗麟が講和の誓紙を交換

1565年
2月、幸鶴丸が元服し将軍、足利義輝から一字をもらい毛利輝元と改名。

1566年
この年は長年に渡って包囲され続けていた月山富田城がついに開城。尼子義久は降伏する。

1567年
3月、伊予の河野道直の救援要請を受け吉川元春、小早川隆景ら毛利軍、二万五千は伊予に上陸
湯月城に入る
4月、毛利と大友の講和破綻。(毛利は大友から破った、とし大友は北九州の諸将の反抗を毛利の差し金だとした為)
毛利軍の先鋒石見国衆、豊前に侵入。(毛利の九州遠征開始)
24日、筑前立花城主、立花鑑載、毛利に通じる。

290: 人間七七四年 2008/09/14(日) 09:38:59 ID:DqwZTEfI.net
立花の叛旗に秋月種実、宗像氏貞ら国人衆多数も呼応。
大友宗麟は元就のやり口に激怒し三万の大軍を立花城に向かわせる。

5月、元春、隆景の両川は各所で宇都宮、四国連合軍を撃破し大洲城を包囲。
宇都宮豊綱は一条康定、長曽我部元親に援軍要請し篭城したが降伏。
豊綱は備後の三原に送られ幽閉される。
救援にきた一条、長曽我部の土佐勢も迎撃され敗退。
宇和の西園寺公広も降伏し伊予平定は完了する。
6月、吉川元春、小早川隆景は一旦軍勢を休めた後、九州へ発向。
7月、大友軍、筑前立花城を攻撃。
毛利の援軍が来るまで持ちこたえられず立花鑑載は自刃。毛利の将、清水左近は長門へ逃れる。
9月、吉川元春、小早川隆景は豊前三岳城を攻略。長野弘勝、自刃。
10月、立花城攻略に備え、筑前馬見城、笠木城を修築

1569年
4月、松山城も攻略した元春、隆景は四万余の軍を催し三岳城を発す
帆柱・若松・芦屋を経て立花城へ向かう一方、水軍を名島に配す
毛利元就、吉田郡山を発し輝元と合流。
本営を長門の長府に設置し九州遠征の諸将を督励する
5月1日毛利軍、立花親続の守る立花城に総攻撃を開始。
宗麟、立花城救援に二万を派遣。
毛利軍と大友軍ついに激突する。
一進一退を繰り返していたが5月18日の戦いにおいて宍戸隆家、熊谷信直、山内隆通ら奮戦し戸次鑑連、五条鎮定らを撃破し大友軍の首級を数百上げる。これにより大友軍、後退。
閏5月3日(この年は閏の為、5月が二回ある)、立花城陥落。城兵全員を助命し退去を命じる。
桂元重が立花城の守備に入る。
6月、京都に潜伏中の山中幸盛(鹿之介)、立原久綱らが尼子勝久を擁立。ひそかに織田信長の援助を得る。
7月、尼子勝久、山中幸盛らが但馬より出雲に侵入。
尼子家再興の激に尼子勢六千になる
元就、月山富田城主、天野隆重の求めに応じ糧食を搬入し鉄砲隊を城内に入れる。
尼子勢、月山富田城を攻撃。
城主、天野隆重はわずか三百の城兵を励まし奮戦し尼子勢を撃退。
尼子勢、月山富田城をあきらめて周辺の諸城を攻略する方針に変更
8月、尼子勢は神辺城を攻略。守城、杉原景盛遁逃。
樽崎豊景、村上亮康ら毛利軍はすぐに神辺城を奪還し井上晧玄を殺害。
8月、高瀬城の米原綱寛、尼子勝久に投降。
10月11日、大友宗麟は大内輝弘を援助しひそかに周防、秋穂浦に上陸させる。
大内軍、山口奉行・井上就貞と藤井淡路守を撃破
10月12日、大内軍、山口乱入。高嶺城を攻撃。
10月15日、毛利軍は九州撤退を決意。
乃美宗勝、坂元祐、桂元重を守りに残し夜、立花城を撤退。
10月18日、毛利軍、長府の本陣に到着。
10月20日、吉川元春は福原貞俊、熊谷信道ら兵一万を率い山口に向かう。(小早川隆景は長府に残留)
10月21日、立花城守備隊も撤退。大友軍立花城奪回する。

大内軍は残党を糾合し五千を越す兵力になっていたが吉川元春が一万の兵で進軍中の報を聞くとたちまち戦意を失い逃亡者が続出。
10月25日、吉川元春、大内輝弘を浮野峠で破る。
大内輝弘、山口を脱出するが富海(防府市)の茶臼山に追い込まれ自刃。
10月28日、元就、輝元、隆景は長府の本陣を撤収し毛利の九州遠征は終了する。

1570年
1月、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景ら両川を率いて出雲遠征に出発。
    ・
    ・
    ・

291: 人間七七四年 2008/09/14(日) 23:54:26 ID:DqwZTEfI.net
※備考

1559年
毛利元就、吉川元春、小早川隆景が石見銀山を奪取すべく尼子方の本城の守る山吹城を包囲していたがその隙をついて大友は門司奪取をはかった。
毛利隆元は一足先に救援に向かい、隆元を助ける為に毛利軍も山吹城の包囲を解き後詰めに向かったが結果的に隆元軍だけで大友を追い返す。
隆元はその後も度々、大友戦で活躍しているので指揮能力はそれなりにあったと思われる。

1561年の門司城攻防戦
大友宗麟は当初門司城は簡単に取れると考えていた。
当時、大尼子が健在で毛利はとても多くの兵を門司に割けないと考えていたからだ。
ところが毛利隆元、小早川隆景の一万八千(諸説あり)の援軍を聞いて驚いたらしい(毛利元就、吉川元春は対尼子)
本州と九州の玄関口、門司がいかに重要だったか窺い知れる。
陸戦では当初五分五分だった。
しかし水軍力の差が大きく完全な制海権をとっていた毛利の陸、海の効果的な連携プレーに大友軍の作戦は後手後手に回ってしまった。
なかなか上手くいかない大友軍は一度戦力を立て直し総攻撃をかけ門司城本丸間近まで迫ったが結局失敗に終った。(かなり落城寸前で危なかったようだ。もし落城していたら守っていた小早川隆景も無事では済まなかっただろう)
毛利隆元に松山城を海からつかれ大友軍は撤退するが小早川隆景の待ち伏せに大友軍は相当危なかったようだ(大将自信刀を奮わなければならないほど危機的状況だった)
最後は救援に駆け付けた佐田が率いる宇佐郡衆の奮戦でようやく大友軍は撤退成功する。
結果的に門司を取るはずが逆に松山城など奪取されて完全な作戦失敗に終った。
毛利軍の水軍の効果的な運用に舌をまいた宗麟はこの敗戦を教訓に水軍に力を入れだした、と言われる。

和睦を結んでいた大友と毛利が再度戦うきっかけになったのは毛利の四国遠征の時だと個人的には思われる
というのも一条を後押しして河野を苦しめたからである
そして両川が四国遠征中に破談も意図的に感じる
もちろん毛利も人の事は言えず九州の国人達にチョッカイを出していたのだがw
ところが宗麟の計算違いは国人衆達の多くが毛利方についた事ではないだろうか?
両川が不在でもこれではとても門司城攻略どころではない。
将軍、足利義昭もかなり慌て松永久秀や織田信長を使って和睦を薦めたが結局失敗に終わる。義昭にしてみたら大友と争わず、毛利にさっさと四国を平らげて自分を助けて欲しかったらしい

☆九州遠征以降
その後も北九州の国人達は度々、大友に反抗している。
高橋など国人衆の反抗は宗麟の自業自得な面も多少なりともあるのだが…
秋月も毛利輝元の支援により秋月城奪還に成功し大友を苦しめる事となる

大友も負けじと尼子、山名、織田などと結んだり村上武吉など寝返らせて毛利包囲網を築き上げる

お互い足の引っ張りあいですなw


294: 人間七七四年 2008/09/15(月) 09:07:06 ID:LmSGwyXo.net
つか、毛利にとっては尼子と挟み撃ちにされさえしなければ、それで良かった。
主力に損害を出すことなく目的を達成できており、大友に付いた能島は空気読めてない。

295: 人間七七四年 2008/09/15(月) 12:24:06 ID:WVyJ+xBe.net
能島に関しては大友が提示した豊後水道の帆別銭徴収権欲しさに寝返った説と
独立を維持する為に毛利の北九州進出を阻みたかった説がある。
後者が目的だとすると能島も目的を果たしたことになる。

411: 人間七七四年 2009/02/18(水) 17:51:00 ID:+3IlUS0q.net
毛利も九州や四国に構ってないで、さっさと畿内を押さえれば良かったのに

412: 人間七七四年 2009/03/09(月) 23:17:43 ID:cE0pknkD.net
日本海航路を押さえ、瀬戸内水運を握るためには下関の対岸の門司、
山陽道の対岸の四国を押さえる必要性あったんだよ

特に対尼子では瀬戸内の水軍を日本海に廻し兵站を確保するのが最重要だったので、
どうしても門司は押さえなければならなかった
その為に筑前や豊前の国衆動かして、大友の影響を排除しなければならなかった

筑前や豊前の国衆からすれば、毛利を利用し支援を期待して大友からの脱却を図る訳で、
その最たるのが肥前の龍造寺

尼子を制して山陽・山陰に目処がついたところで、大友が抑えてる博多に目をつけて、
交易利潤を求めて大友と対峙するも、東からは信長の勢力が拡大して、対大友を断念
それ以降は防衛戦争に必死になりましたとさ

420: 人間七七四年 2009/09/10(木) 13:11:48 ID:JtvXVSlW.net
大規模な二度に渡る奇襲をした元就側の大敗北により北九州からの完全撤退で幕を閉じた戦役。
また二回の侵攻の間に清水等を将帥にした毛利軍の中規模侵攻がたびたび行われたがことごとく失敗し、秋月、筑紫、原田、高橋、立花、麻生、宗像など毛利派はすべて壊滅。

421: 人間七七四年 2009/09/10(木) 13:15:41 ID:bZkS29Hy.net
いや、毛利の勢力の内部の問題で撤退しただけ。
別に大友が尼子の蜂起を画策したほけではないし。

479: 人間七七四年 2009/10/24(土) 09:30:14 ID:k3G7ZgT/.net
大友配下は名将揃いだが、
あちらを立てれば、こちらが立たないと言う
強烈なライバル関係で成り立ってたから
その人間関係を三老の調整力でうまく噛み合わせてたからね。
宗教問題を抱えた宗麟が家督を義統に渡してからの二元政治の迷走ぶりはヒドい。
新興勢力のような大名と違い、いろいろと難しい家だよな大友は。

505: 人間七七四年 2009/12/20(日) 08:39:43 ID:oWcdLz+U.net
秋月「なんだまた毛利負けたのか。口先番長元就つかえねぇ!毛利見限って島津に付くか」
島津「こんど大友と同盟して竜造寺滅亡させようかと」
秋月「それ絶対ダメ!俺が竜造寺との仲を取り持つから大友と戦え」
島津「豊後攻略しようかと」
秋月「それ絶対ダメ!大友は博多まず奪わないとムリ筑前攻略優先だ」
筑紫「秋月が大友と和睦するだ…と?クソ秋月め。俺を滅ぼすつもりか!ヤバい娘を高橋に差し出して土下座して秋月を出し抜け」
島津「秋月さん立花城あんなに要害なんて聞いてないよ」
秋月「見ててやるから、早く立花を力攻めしろよ!いや~島津を利用して宝満城と岩屋城が手に入ったし満足wwwあとは島津がさらに疲弊するのを待って俺様が九州の覇者になるぜって島津敗走かよ使えねぇ」
島津「秋月さんやっぱ初期の計画通り豊後攻略するから協力して。」
秋月「あぁ?ムリに決まってんじゃん。お前の敗走のせいで立花のガキに宝満も岩屋も奪回されたし、筑紫まで敵に回っちまったよカス」
秋月に都合よくさんざん利用されて棄てられた毛利&島津w

586: 人間七七四年 2010/01/23(土) 17:54:37 ID:yR4O3X91.net
吉岡長増

毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に
弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、
毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。
長増は輝弘を送るにあたり、周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を
筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、
この寝返りを毛利元就の策略と疑い、
8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を
襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。
大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、
さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、
10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、
同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防国に侵攻させた。
毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防.長門を攻撃できないことであった。
これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、
兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。

779: 人間七七四年 2011/06/28(火) 05:00:54.73 ID:HhwRnb72.net
毛利なんて田原紹忍でもを宛てておけば
一進一退くらにで維持できたろ。

780: 人間七七四年 2011/06/28(火) 05:39:00.65 ID:Hj27mFpE.net
田原親賢じゃ無理だろ

781: 人間七七四年 2011/06/28(火) 12:46:34.87 ID:cGFVMJ0c.net
意外と彼は手堅い用兵をやるし
門司の毛利方の策動を知り国東半島から小倉に急行することもたびたびで
豊前方面の責任者やって負けてないよ。
対島津戦では島津との和睦交渉しつつ
軍議内容は角隈石宗などとどうやってキリスト教を潰せるかの策動をしていた。
そしたら最前線で衝突が起こり気付いてみたら自分が知らないうちに大敗してた。

782: 人間七七四年 2011/06/29(水) 09:26:34.38 ID:pptktEE3.net
大友は人材はかなり凄いんだよ
ただ大領を持ってて
野心家過ぎる濃いメンバーなだけで。
守護大名だったから大友宗家の直轄地が少ないのがきつかった。
もはやこれ以上の加増は無理レベルだけど戦争やらせるにも
言うこときかせるにも恩賞必要だし。
仕方がないから寺社破壊で荘園没収しか手がなかった。
政治統治システムも面白い。
中央で政治参加する場合は有事以外では軍団統御できない。
最前線で軍団指揮するためには地方へ赴任転出して政治参加できない。



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毛利、大友、島津、いずれも資料がほとんどないうえ
明治維新以降の英雄譚がねつ造されまくってるから
調べようがない

| ななしさん | 2016/05/27 13:59 | URL |















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